白百合の誘い
英国には珍しいほどすっきりと晴れた昼下がり。手紙を手にトランシー邸の森へ足を踏み入れたシエルは、ほどなくして自分を待つ人影を木立の中に見出した。濃紺の長い裾を翻して振り向いた彼の淡青色の目が一瞬驚いたように見開かれた後、歓喜に解ける。
「シエル!
来てくれたんだね!」
嬉しそうに駆け寄って手を取ろうとするアロイスの機先を制して、シエルは手に持っていたむき出しの便箋をその目の前につきつけ、冷たく問う。
「こんな物で僕を呼び出して、何のつもりだ」
二人きりでお会いしたいので、同封の地図にある場所にお一人でお越し下さい――茶番じみたあの仮装舞踏会から数日後に届いた短い手紙。もう1枚の便箋に描かれた稚拙な地図がトランシー家の敷地内にある森でなければ当然黙殺するところであったし、何らかの罠が待ち受けているのは確実だと思われたが、シエルは危険を承知であえて提案に乗ることにした。トランシー家が自分の討つべき敵だと知った以上、いずれはぶつかることになるのだ。罠であったとしても決戦を無駄に先延ばしするより会ってみる価値はあるだろうと考えたのだ。念のため執事は敷地外へ待機させておき、相手が差出人のアロイス・トランシー本人のみでなければ即座に呼び寄せる手筈は整えていたが、とりあえずはこのまま様子を見ることにする。
「そんな怖い顔しないでよ。1つ確認したいことがあるだけなんだからさ」
「……その格好でか?」
先だっての仮装舞踏会で初めて顔を合わせた時と同じメイド服。長髪のカツラこそつけていないものの、その他は前回と全く同じで、彼が自分を待っていた木の根元には大きなトランクが置かれている。中身が何なのかはまだ分からないので注意だけは払っておくべきだろう。
「んー、今日はいつもの服よりこっちの方が雰囲気出るかなって。さ、こっち来て来て」
「っ何を……?!」
突然手を引かれてたたらを踏むシエルにはお構いなしで、アロイスは相手の手首を掴んだままあのトランクの置いてある木蔭へ歩いていく。明らかにうきうきとした足取りと声音に警戒を強めていたシエルにとって、続いて発せられた言葉は至極意外なものだった。
「この前の帰り際に君の執事が言ってたんだ。俺よりシエルの方が可愛く化けられるってさ。だから確認」
「セバスチャンが……?」
「そう、だからこれ。百聞は一見に如かずっていうしね」
言いながらアロイスが開けたトランクの中には、色とりどりの衣装が乱雑に詰められていた。赤いモスリンのドレスや水色のゆったりとしたワンピース、それから淡いピンク色のヒラヒラが目に入った瞬間に何故かみしみしと体が圧迫されるような感覚を覚えたが、今はそれよりも相手の発言内容の方が気になった。あの執事は何を考えてそんなことをこいつに吹き込んだのか!
「俺のサイズで作らせたからシエルにはちょっと大きいだろうけど窮屈じゃないのはいいことだよね。それじゃ早速失礼して……」
白い手が伸びてきてしゅるっと襟元のタイを解かれたと気付いた頃にはもう上着のボタンも2つ外された後だった。シエルが唖然としている間にもアロイスは器用に上着を剥ぎ、シャツのボタンに取り掛かる。
「ふふ、抵抗しても駄目だからね。だいたいここで俺から逃げたところでシエルは自分で元通りに着られないだろ?
俺に任せとけばちゃんと元通り、あの執事に見られても大丈夫なくらいバッチリ着せ直してあげるからじたばたしないの。君が暴れて服にシワが寄っちまったらさすがに責任取れないけどね」
――そうなったら困るのは君の方でしょ?
にやりと意地悪な笑みを浮かべながらもアロイスの手は止まることなく動いている。シャツの袖が腕から抜かれそうになって初めて、シエルははっきりと抵抗した。背中の傷を見られる訳には――。
「大丈夫。君の背中のことは知ってるよ。誰かに言うつもりもないし。ほら、シワになるからさっさと力抜きなって」
一体こいつは何を考えているのか。まさか着せ替え遊びのためだけに呼び出したわけでもないだろうに、いつ本題に入るのか。あれこれと考えを巡らせている間に着せ付けが終わったのか、こちらをしげしげと眺めるアロイスと目が合った。
「それで、本題は――」
「うーん、やっぱその眼帯邪魔。ヴェールで誤魔化すか」
「おい、人の話を……!」
聞け、と続けられる筈だった怒声は、眼前に薄い紗のヴェールがかかるとほぼ同時に力いっぱい抱きつかれることで中断させられた。
「すごいよシエル!
想像以上だ!
こんなクソみたいなドレスも君が着たらまるで別物に見えるよ!」
ぎゅうううう。興奮に声を上ずらせているアロイスの腕は意外と力強く、シエルは抗議の意を込めてその背を拳でドンドン叩く。
「いい、っから離、せ……息が……」
「あ、ごめんごめん。思った以上に似合ってたからつい……」
パッと解放されてぜえぜえと荒い息を整える。
(まったく、コルセットがなかったからいいものの……って、何を考えてるんだ僕は)
男である自分には無縁の筈のコルセットがなぜここで当たり前のように思い浮かぶのか。どうやら自分は自覚している以上に動揺しているようだとシエルは内心溜息をつく。完全に相手のペースに嵌められている。早く主導権を取り戻さなければ。
「……ねえシエル、女王の番犬なんてやめてうちの子になっちゃいなよ。義務とか面倒で疲れちゃうでしょ?
執事なんていなくても俺が全部やってあげる。俺はずっと世話してくれる人がいたわけじゃないから大抵のことは自分でできるし。せっかく拾った命なんだからさ、一緒に幸せになろう?」
今度は壊れやすい大事なもののように優しく抱き寄せられ、後ろ髪を撫でられる。暗い部屋で婀娜っぽく舌を這わせてきたあの時とはまるで違う。囁きかけてくる声はところどころ震えていて、いつ泣き出してもおかしくないようにすら感じられたが、先日知った真実が感傷に冷や水を浴びせてシエルの思考を再起動する。
――上等な演技だ。トランシー家こそがファントムハイヴを穢したのだと知らなければ騙されていたかもしれない。
「これ以上の茶番は不要だ。アロイス・トランシー。死んだ身に幸せなど無意味だ。僕はただ目的を達するまで進む、それだけだ」
「……君の執事と一緒に?」
「奴は駒だ。このゲームで勝ちを手にするにあたって有用な駒。それだけだ」
「そう……」
シエルから手を離したアロイスは暫くうつむいていたが、やがてシエルを飾ったヴェールを外し、衣服を元通り着せ直し始めた。
「君は強いね。強くてきれい。いや、強いからきれいなのかな」
「まさか。強ければこんなことにはなっていないさ」
「ううん、君は強いよ。だけど俺も、諦める気はないから」
「わかっている。次に会う時は……容赦はしない」
「こっちこそ」
最後にリボンタイをきゅっと締めると、アロイスは顔を上げて人を食ったような笑みを浮かべた。
「それじゃさよなら、シエル」
「ああ、お別れだ」
服装が元通りになっているのを確かめ、シエルはためらいなく踵を返して歩き去る。決して振り返ることはしない。それを知ってか知らずか、アロイスはその背を見送ることなく用済みとなった衣装をトランクに詰め始めた。
ユリユリしいアロシエアロが見たいです。どなたか書いて…!
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