恋の吐息




 澄みわたった空から穏やかな光が降り注ぐ昼下がり。婚礼衣装の仮縫いを終えたレイチェルは、長時間立ち通しですっかり固まってしまった体を伸ばしほぐそうとちょうど表へ出たところだった。かたちよく刈られた庭木の陰で大きく伸びをする。こんな姿を万一来客に見られてしまっては大変だが、開放的な庭で思い切り体を伸ばすのは非常に心地いい。風がおだやかにレイチェルのドレスの裾をなでる。上等な生地が、ぱたりぱたりとやわらかくはためいた。
 来客の予定は聞いていなかったが、さすがに人目が気になる。緑の木立から顔を出して少し離れた門の方へと目をやったレイチェルは、そこに見覚えのある紳士の立ち姿を見出した。正面玄関へ向いた視線から見るに、相手はまだこちらの存在には気づいていないようだ。何やら白く大きな花束を手にしている。
「ファントムハイヴ伯爵!」
 木立の合間から顔を出したレイチェルは小走りに門前に立つ紳士のもとへと向かう。その声を聞いてこちらへと向き直ったその顔は、やはりファントムハイヴ伯爵その人に間違いなかった。有能な実業家の顔も持つ青年紳士。その影にもう一つ、裏社会の王の顔をも持っていることはレイチェルもいまだ知らないが。
「こんなお天気のいい日にお会いできるなんて嬉しいですわ、ファントムハイヴ伯爵。でも今日はどうしてこちらに?」
「今日がちょうど君の誕生日だとは知らなかったよ。通りで昨日たまたま会ったレディ・アンジェリーナから聞いたんだ。それを聞いて慌てて用意させたものなのだけれど、受け取って頂けるかな?」
 そういって差し出されたのは遠目にも目立った大輪の白い薔薇の花束。
「ありがとうございます。とても嬉しいわ」
 にっこりと笑んで花束を受け取りながら、レイチェルは内心ほっとしたような穏やかな気持ちを感じた。
 ――この花束はファントムハイヴ伯爵がアンジェリーナの助言を受けて私にくれたもの。そう、私に。
 アンジェリーナがファントムハイヴ伯爵に淡い想いをよせていることは以前からわかっていることだった。愛しい妹の想いのベクトルを自分が読み間違えるはずはない。
 だが、妹の恋はかなわない。ファントムハイヴ伯爵はもう既に彼女の姉である自分と婚約を交わしている。自分自身ファントムハイヴ伯爵の人柄は本当に恋しく思っているし、幸いなるかな、逆もまた真なのだろうと思う。だからアンジェリーナとファントムハイヴ伯爵とが結ばれてしまうことはない。愛しい妹をファントムハイヴ伯爵にさらわれてしまうことはないのだ。
 ファントムハイヴ伯爵ほどの紳士であっても、アンジェリーナを渡してしまうのは堪えがたいことだ。自分はアンジェリーナが生まれた時からずっと彼女の側にいて、長い間彼女を見守り、いとおしんできたのだ。気恥ずかしそうにはにかむ妹よりも愛らしいいきものをレイチェルは知らない。聡明で、素直で、それなのに十分な自信を持てないでいる可愛い妹。どうしてよその男の手などに渡せようか。
 もっと、もっとアンジェリーナはファントムハイヴ伯爵を恋しく想えばいい。他の男に言い寄られても目もくれないほど、未来も希望もない恋心に身を焦がせばいい。そうすれば、妹はファントムハイヴ伯爵から、ひいてはその隣に立つ自分から離れられなくなる。
 甘い薔薇の香りが鼻腔をくすぐり、レイチェルははっと現実に引き戻された。正面にはいかにも温順そうな笑みをたたえた青年紳士の顔。
「せっかくいらして下さったんですもの。お茶を用意させますわ。ああ、アンも呼んでこないと」
「そうだね、ありがたくいただくよ」
 霧の都には珍しく晴れ渡った空よりも爽やかに笑む青年紳士。ファントムハイヴ伯爵の来訪をいち早く知ってすぐにもてなしの準備を整えさせ、今ごろは自室でそわそわと身支度を整えているだろう妹。どちらも自分の愛しい宝物。
 ――だから、誰にも、渡さない。
 レイチェルはやわらかく、けれどまっすぐに降り注ぐ陽光のように笑み、ファントムハイヴ伯爵を客間へと促すのだった。



白い薔薇;花言葉は「恋の吐息」