帰らぬ人





「特に異常はないようです。音素も安定していますし……」
 更に数週間の時が経ち、ジェイドはキムラスカのファブレ公爵邸で所見を述べていた。対するルークの方は、ゆったりと椅子に腰掛け、優雅な所作で紅茶を飲みながら耳を傾けている。
「私の所見としては以上です。医学的な見地からの話は既に医師から説明があったと思いますが……」
「ああ、説明は受けた。けど、やっぱり聞いておきたくてさ。ジェイドは昔の俺――“ルーク”と“アッシュ”をその目で見てたから」
 穏やかな色をたたえた瞳。ジェイドが以前共に旅をしていた子供とも、レプリカであった彼の被験者たるアッシュとも全く異なる表情。
 ――あの日、誰が誘うともなくかつての旅の仲間が集ったタタル渓谷。祈りの代わりにティアの譜歌を捧げ、帰ろうとしたところに彼は現れた。
『約束した、からな』
 しっかりと大地を踏みしめて立ち、柔らかく笑う。英霊として既に墓に名の刻まれた男。世界の誰もが、仲間達ですら死んだと思っていた彼は、確かにそこに生きていた。最初に皆の面に浮かんだのは驚き。そしてやや遅れて――歓喜。叶うまいと思っていた再会を喜び合っていた彼らのうち、誰だっただろうか、誰かがごく自然にその問いを発した。

『ルーク、それともアッシュ。あなたはどちら?』

 彼は答えた。どちらでもあり、どちらでもないと。
「……あなたは“ルーク”の記憶も“アッシュ”の記憶も持っている。けれど意識としてはそのどちらでもなく、むしろ別個の人間であるという認識でいいでしょうか」
「そうだ、とはちょっと言い切れないけどそう思ってくれたらいい。彼らがどう行動し、その中で何を考えたか俺は覚えてる。だけど、それは俺の経験じゃないんだ」
 可能性はゼロではなかった。だが、限りなくゼロに近かった。その確率の網の目をくぐり抜けて、彼は約束を果たし、
戻ってきた。しかしそれはジェイドのよく知る“ルーク”ではなかった。
 彼は、もどらなかった。
 彼を知る者の記憶の中にしか、もはやあの子供は存在しない。それが、今差し向かいで話しているルーク・フォン・ファブレが、そしてかき集めるだけかき集めたフォミクリーの研究資料がジェイドに告げた、結論だった。
「ありがとう、だってさ」
 ルークが何の前置きもなく呟いた。
「ジェイドが知ってる“ルーク”の、最後の言葉。皆と別れた後“俺”はすごく穏やかな気持ちだった。『生きてきて、よかった』ってさ」
 あの子供はどれだけ馬鹿なのか。たった10年も生きられなかったくせに!
「そうですか。ルークがそんなことを……」
「そこで“ルーク”の記憶は途切れてる。俺自身の記憶はその後暫く空白を挟んで始まるから、そこが最後、だと思う」
 もう一度彼はカップを口元に運び、少し熱かったのか、わずかに顔をしかめた。その顔はジェイドの記憶の中にあるものと全く同じなのに、全然違う、動作。顔だってよく見れば表情の作り方がかなり違う。少し猫舌気味なのは、変わっていないけれど。
「ふむ、やはりあなたは別人ですね。……これからは改めて、よろしくお願いします。ルーク」



 やはり、失ったものは二度と戻らないのだ。帰国する船上で、ジェイドはぼうっと空を眺める。
『“ルーク”の声が聞きたくなったらいつでも来いよ。俺が覚えてる範囲でいいなら伝えてやるからさ』
 あの後、ルークの申し出をジェイドは丁重に断った。自分の知る“ルーク”は世界を救うために死を選んだ。もとい、選ぶしかなかった。戻ってきた彼は“彼”の記憶を有しているだけの別人に過ぎず、彼に何を言おうとも、本当に伝えたい人物には伝わらない。謝罪の言葉は行く手を失って宙に浮き、いずれ自分の中に降り積もるだけ。

『ゆるしてください』

 その言葉を受け取ってくれる人は、もうどこにもいないのだ。
『赦してあげるわ、ジェイド』
 恩師のレプリカ。彼女は被験者の代わりになれると言い、自分はそれを否定しきれなかった。フォミクリーが何の解決も生まないことを、その技術によって起きた種々の悲劇を、自分はこの目で見てきたというのに。まやかしとわかってはいても、見たくない真実から目を背ければ、自分は楽になれたから。あの時彼女が提示したのは、そんな道だった。
 そもそも彼女の誘い自体、自分の無意識が見せている悪夢だと思っていた頃ならいざ知らず、生きていた彼女の仕業であるとわかってからは、それから逃れるためアルコールに頼る必要は本来なかった。彼女の居場所はわかっている。あの氷雪の岩場に赴き、彼女に引導を渡してしまえばそこで決着はついていた。ピオニーやディストにまで何かあると訝られることもなく、全ては終わっていた、筈だった。それなのに自分がそうしなかったのは。
 ――怖かった。
 あの場所へ行けば生身の彼女が待っている。夢や幻の中ですら危うかったのに、もしも甘い囁きと共に温かい腕に抱きしめられたら、つい頷いてしまいそうで怖かった。彼女の言葉に脳まで溺れて。そのうちに正気さえなくしてしまうのが。


 けれどもう揺らぐことはない。この手で彼女にとどめを刺し、全てを、終わらせる。


帰らぬ人;二度と帰ってこない人、の意より、死者を表す。