憑かれた男





 翌日の午後。ディストは不機嫌な顔で宮殿の廊下を歩いていた。罪人である筈の彼の体には何の拘束もかけられておらず、見張りの兵すら傍にはいない。まるで無罪放免のような(実際はそういう訳でもないのだが) 扱いが、ディストには逆に気にくわない。この他には自分が生き残る道はなかったからそうしただけで、他にひとつでも選択肢があったなら、こんな道は選ばなかった。こんな、
「…………」
 そんなことを考えていると、皇帝の私室から出てきたジェイドとすれ違った。その顔に奇妙な違和感を覚えたディストは思わずジェイドの顔を目で追った。その視線に気付いたか、ジェイドが足を止めて振り向く。
「おや、ディストじゃありませんか。私の顔に何か付いていますか?」
 いつもと変わらぬ、人を食ったような口調。しかしこの時ディストは、言葉と共に吐き出された彼の呼気に反応した。
「ジェイド、あなた……」
「何ですか?」
「あなた、酒くさいですよっ!」



「先程ジェイドに会ったんですが、あの人どこか変じゃありませんか?」
 そんなことがあった直後、である。ジェイドと皇帝との間に何かあったのではないか、ストレートに言ってしまえば、真っ昼間からあの皇帝に酒を飲まされたのではないかと考えたディストは、ピオニーに疑問をぶつけていた。
「変だな、確かに。まああいつが変なのはいつものことだろ」
「明らかに普段と違うじゃありませんか!あなた今度は何をしたんです」
「俺のせいだって言うのか」
 まどろっこしい会話、だとディストは感じた。この男は話の先を読んで返事をすることができないのか!
「別にあなたのせいかどうかなんてどうでもいいんです!何か知ってるんでしょう!」
「さあな。ここのところ酒浸りではあるらしいが、それ以上は知らん」
「ジェイドは何か隠しています。気にはならないんですか?」
「あいつも子供じゃないんだ。喋りたくなれば勝手に喋るだろ」
 皇帝の態度はひどく冷たいように思う。
「友達がいのない男ですね……!」
「じゃあ聞くが、サフィール。友人ならむやみに根掘り葉掘り何でも尋問していいのか?」
「尋問、ですって……わかりました!あなたにはもう何も聞きません!」
 ディストは己が身分も忘れて皇帝を怒鳴りつけ、憤然と部屋を後にした。



 ディストの足は自然とジェイドの執務室へと向かう。理性的に考えれば、きっとピオニーの見解の方が正しく、自分の行為はただのお節介に過ぎぬものなのだろう。しかし、長年ジェイドの背を追い続けてきたディストにはわかるのだ。ジェイドの目は明らかにおかしかった。アルコールで濁っている目とは違う、何か得体の知れない色に濁った瞳。先の戦いで何度か対峙していた時はもちろん、戦犯としてのディストの処遇があれこれと取り沙汰されていた時も、はるか遠く記憶を遡ってさえ、あんな目をしたジェイドを見た覚えはない。
「……ピオニーはわかっていないだけです。これまでジェイドを一番見てきたのはこの私」
 思い込みじみた確信があったからこそ、ディストは執務室へ入るなりまっすぐにジェイドの目を見て尋ねたのだ。
 しかし。
「別に何もありませんよ」
 いつもの笑みを張りつけたまま軽くあしらわれると、その確信も揺らぎそうな気がする。
「じゃあピオニーと何を話していたというんですか!仕事の話ではないんでしょう!」
「キムラスカの公爵子息――つまりルークですね、あなたもご存知でしょう。彼の成人の儀が近く執り行われるんです。それに行くかどうかという話でした。彼の慰霊のために行われるものとはいえ、あくまで形式的なものに過ぎませんから行く気はないとお返事しましたが」
 ――何なら陛下に確かめて下さっても結構ですよ。
 ジェイドの口調には淀みがない。しかし、その目はやはりどこかおかしい。
「ではあなたはなぜそんな顔をしているんです」
「別にいつもと変わりませんよ。眼鏡の度が合っていないんじゃありませんか?」
 ディストにはわからない。ジェイドのどこがどうおかしいのか。ただ、何かがおかしい。違和感は既に彼に恐怖すらもたらしている。
「隠したって無駄ですよ!私にはわかるんです!」
「キーキーとうるさいですねぇ……私のどこがどうおかしいと言うんです」
「あなた、自分がどれだけ酒くさい息を吐いているか自覚がないんですか?!」
 ジェイドは大儀そうに溜息をついている。もううんざり、といった顔だ。しかしここで引き下がっては全ては水の泡。ディストは更に言葉を重ねた。
「ジェイド、私はずっとあなたのことを見てきたんです。誰よりも長く。だからわかります」
 ――あなたのことなら何だって!
 ジェイドの顔色が変わった。ただでさえ白い肌が色を失い、紙のように白くなる。一瞬だけ赤い目が揺らぎ、そして。
「うるさい!」
 パン、と派手な音がして。
 頬を、張られた。
「……な、何ですか……」
 バランスを崩してその場に倒れこんだディストは、ゆっくりと身を起こしながら呟く。見上げたジェイドの顔は、驚くほど冷たいものだった。いつも冷たくあしらわれ、慣れっこの筈なのに。どうしてこんなに、怖いのか。
「出て行きなさい。速やかに」
 ――殺される、と思った。出て行かなければ、殺される。
 何かに取り憑かれたようなジェイドの凶眼に震え上がり、ディストは部屋からまろび出た。ああ、恐怖の正体は殺意かと、不思議とどこかで納得する。しかし、疑問もまた一つ。互いに殺し合うつもりで対峙したこともあるというのに、どうして、この殺意はこんなにも恐ろしいのだろう。あの時は、こんな恐怖は感じなかったというのに。


terror;恐慌状態寸前の激しい不安、或いは恐怖。