ブウサギ級の…





 南向きの窓から暖かい陽が差し込むジェイドの執務室。久しぶりにその中へと入ったジェイドは、扉を閉める音とともに小さく溜息をもらした。視線の先には前回来た時に片付けたのが嘘のようにばらばらと床に散らばる本の山。と、その中に埋もれて眠りこけている主君の姿だった。
 直通の隠し通路まで作っているくらいだ。彼がここにいるのは今更何の不思議もないし、サボり癖も散らかし癖もいつものことだ。しかしそれはいつも自分がこの部屋にいる時にのみ起こる事象だった筈で。この旅の間に時折立ち寄った際も、主のいないここは常に無人だった。
 だが今確かに彼は安らかな夢の中。わずかに涎まで垂れているあたり、皇帝の威厳も形無しだ。更に気の抜けることに、彼が連れ込んだと思しきブウサギ(どれなのか自分には区別がつかない)の鳴き声まで聞こえてくる。ジェイドは特に気配を断とうともせずにピオニーに近付くが、彼が目を覚ます気配はなかった。
「不用心ですねぇ……」
 軍人の常として、もとより足音を立てることはない。だが気配までは断っていないのに。
 のんきに鳴くブウサギの声を聞いているうちに、ムクムクと悪戯心が頭をもたげて。ジェイドは今度こそ完全に気配を消し、ピオニーの頬に手を伸ばした。
 ふに。
 手袋越しにもそれとわかるやわっこい感触。で、よくのびる。
 ピオニーは熟睡しきっているのかゆるんだ顔のままちっとも目を覚まさない。ここまでされてなお気付かないとは、よほど疲れているのだろう。それでなぜジェイドの執務室で寝るのかはよくわからないが、おそらくは部屋の主がいないため、即ちお目付け役となりうる者が誰もいないためだろう。ジェイドが留守にしている限り、ここには誰も入ってこない。連れ戻される心配もなく、ゆっくりと惰眠を貪れるわけだ。
 とはいえ。いつ何時何者かに命を狙われるかわからない皇帝陛下がこれほど他人の気配に鈍感でいいものか。今ここにいるのが敵であったなら、彼は間違いなく息の根を止められているだろう。昔、ケテルブルクにいた頃はもっと気配にさとかった気がするが……メイドも屈強なボディーガードも、誰も彼の脱走を止めることはできなかった。今から思えばそれは彼らの黙認のもとの自由だったのかもしれないが、彼の脱走現場を直接押さえた者は結局1人もなかったのだ。自分でさえ、彼がいつやって来ていつ戻っていたのか、正確な時間や場所はいまだにわからないまま。
 だが今は。メイドによる手入れの行き届いた柔らかい頬をこうして摘んでも寝返りのひとつも打たない。ふにふにとなおも弄ってみても結果は変わらなかった。まったく、皇帝としての自覚はあるのか。
 頬だけが伸ばされている間抜けな顔からは、それをうかがい知ることはできなかった。


 ふと、先程までジェイドの机の近くにいたブウサギが側に寄ってきた。よく栄養が行き届いてつやつやとした毛並み。丁寧にブラッシングされていて首に絹のリボンが掛けられているさまは、さながら血統書のついた愛玩動物のようだ。
 ……実際愛玩動物には違いないが。
 すり寄ってくる動物の体温は人間よりも少し高い。他になく艶のある毛並みに、遠い故郷にいる妹の名が胸をよぎる。気まぐれに撫でてやれば、ブウサギは機嫌よく鼻を鳴らした。ここで彼が昼寝を始めてどれくらいになるかは知らないが、ちょうどひとり遊びにも飽きてきた頃だったのだろう。ブウサギは離れようともせず、ジェイドに身をまかせ、されるがままになっている。
 ペットは飼い主に似るというが、その逆もありうるのだろうか。ブウサギの様子は彼そっくりだ。いつも何を考えているのかわかりそうでわからないまるい目も、柔らかい皮膚も。だが、寝ているからとはいえ、このだらしなくゆるんだ顔はブウサギが彼に似たというより、彼の方がこののんきな生き物に似たとしか考えられない。というか、考えたくなかった。
「…なんだ、もうおしまいか?」
視界の端、ブウサギに気を取られて全く注意を払っていなかった所から、よく通る幼馴染の声がした。驚いて振り向けば、海のように青い瞳がジェイドを、正確にはブウサギを撫でてやっているジェイドの手元を眺めている。
「皇帝の信任をいいことに悪戯を仕掛ける部下なんて、後でいいネタになりそうだったんだが」
 この程度じゃあな〜、などと言いながら、ピオニーは実に楽しそうだ。全く、こういうところはいつまで経っても子供そのもの。
 起こせ、と手を出すので、ブウサギから手を離してその体を引き上げてやる。彼の腹の上にまで乗っていた本が一冊ぱたんと落ちた。
「おや、執務をサボって部下の部屋で昼寝をしている皇帝陛下の実態こそ、国民が知ったらどう思うでしょうね?」
 もちろん、しっかり嫌味を言うのも忘れない。
「動物と戯れる死霊使いの方こそ、ゼーゼマンのじいさん辺りが見たら腰抜かすぞ」
「別にどうということはないでしょう。陛下のおふざけに毎回付き合わされてるんですから」
「俺は動物か。……やっぱりこっちのジェイドは可愛くねぇな〜。ネフリー、可愛いジェイドの所へ戻ろうぜ」
 片付けぐらいしていけ。ジェイドは喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。やめておこう。どうせ言っても無駄だ。一方、ブウサギを連れて隠し通路へと足を突っ込み、姿を消したピオニーはなぜかすぐにまた頭を出し、思い出したようにこう言った。
「散らかされたくなかったら、たまには帰ってこい」
 ぷつん。
 ジェイドの脳裏で、何かが切れた音がした……ような気がした。
「陛下、今しばらくここにいていただけますか?」
 にっこり。
「い、いや、俺これから仕事があるから……」
「後で私の方から説明しておきますから大丈夫ですよ」
「それに……そう!俺のブウサギ達が俺の帰りを待ち望んでる!」
「気が利くメイドの皆さんが世話しておいてくれるでしょうから問題ありません」
 諦めきれないのかまだ口をもぐもぐさせているピオニーに向けて、もう一度、ジェイドは全開の笑みを浮かべる。
 ――結局その日、皇帝陛下の執務が再開されることはなかった。



驚きの柔らかさ。softよりむしろtender推奨(どっちだっていいよ)