緩慢な斜陽




 瘴気の消えた街は活気を取り戻していた。安堵の表情を浮かべた――そしてこれまでの反動か少しばかり浮き足立っているようにも見える人々の間を縫ってひとり教会へ向かう青い影。
 だが街の喧騒から大きな扉をひとつ隔てた教会の中は厳かな空気で満たされ、お祭り騒ぎでも起きそうな表通りとは全く雰囲気を異にしている。瘴気が消えてしばらく経った今も、感謝の祈りを捧げに来る人々がひっきりなしに訪れていた。
 聖堂の一番奥に据えられたユリアの像に向かって頭を下げる老人、母親の見よう見まねで手を合わせる少女。ほのかに薔薇色がかった色彩が美しいユリア像は人々の祈りに変わらぬ微笑で応えている。
「軍人さんもお祈りですか?」
 不意に声をかけられ振り向くと、人好きのしそうな笑顔の小男がジェイドを見上げていた。人違いかと周囲に視線を配るが、この見ず知らずの男は本当に自分に話しかけてきているようだった。
「瘴気が消えて本当によかったですよね。うちの娘も瘴気で具合が悪かったんですが快方に向かってまして、今日はそのお礼を申し上げに来たんです」
「……そうですか」
「これもユリア様のおかげですわ。本当、ありがたいことです」
 それだけ言うと男はいそいそとユリア像の方へと歩いていった。



「ユリア様のおかげ……ですか」
 低音の呟きが漏れる。仕方ない。彼は、否、世の大多数の人々はまだ真実を知らないのだ。彼の娘を救ったのが1人の被験者と市民に忌み嫌われているレプリカ達であると知ったら彼はどんな顔をするだろう。いや、それよりも彼らの喜びようをもしもルークが目にしたら、彼はどういう反応を見せるだろう。彼の行動によって実際に救われた人々の素直な喜びを、もし仮に目の当たりにしたならば。
 一瞬だけ考えかけたジェイドはしかしその思考を振り払った。
 あの子供のことだ。青臭いヒロイズムに心を浸し、更なる自己犠牲に走るだろうことは目に見えている。昨晩も、ちょうどそのようなことを言いかけていたくらいなのだ。



 夜も深まった宿の一室でいつものように検診を行っていた時だった。
「なあジェイド、世界中の人達全部数えたら、一体何人いるんだろうな」
「さあ、どうでしょう。少なくとも地道に1人1人数えていたら数え切れないくらいはいると思いますが」
 簡単にメモを取りながらルークの体調をチェックしていく。そして脈を取ろうと彼の手首を取った時、ジェイドの瞳にほんの僅かだけ、困惑の色が浮かんだ。
「ルーク、この前検診したのはいつでしたか?」
「いつって1週間前だろ。しばらくできなかったから今日は慎重に調べるってジェイドが言ったんじゃねーか」
「そうですね……そうでした」
 誤魔化すように笑って脈を取る。脈拍はいつもと変わりなく、まだ彼は確かにここに生きているのだと内心胸を撫で下ろす。だが先ほどの違和感は。
「……すみませんが、ちょっと失礼しますよ」
「え?ってわ、ちょ、何すんだよ!!」
 ぼんやりとしていたルークの体を担ぎ上げる。もとより普段から鍛錬を積んでいる自分にとっては別にどうということもない重みだが、やはり。
「おいジェイド聞いてんのか?おーろーせっつーの!」
 じたばたと暴れるルークの表情も、背中を叩く拳の形も感触も、以前と全く変わらないのに。
 ――ただ、その重みだけが以前と違う。
「……ジェイド?」
 眼鏡に触れそうなほど近くでぱたぱたと手を振るルークの姿が目に入り、我に返ったジェイドは静かにルークを下ろし、床に立たせてやった。
「失礼。今は特に異常はないようですが、何かあったらすぐ私に言ってきて下さい。いいですね?」
「ん、わかった。ジェイドも早く寝ろよな。明日早いんだから」
「ええ、お子様が寝付いたら私も寝ますよ」
「お子様って誰のことだよ。もう寝る!」
 ぱたんとドアが閉まるのを見送って、ジェイドは深い溜息をついた。仲間の誰にも、本人にさえ告げてはいないが、ルークの音素の乖離はシュウ医師が見立てたよりも少し速い。彼自身は努めていつも通りに振る舞い、度重なる戦闘もこなしているが、脈を取るたびに彼の腕が軽くなっていくのを感じるようだ。それにしても、1週間見ていなかっただけで違和感を覚えるほど乖離が進んでいるとは……。
 当然ルーク自身は気付いていないだろうが、たとえ事実を教えても彼は戦うのをやめないだろう。レムの塔へ向かう前から既に彼は世界のためにその身を犠牲にすることを選んでいたのだ。
「……正確には、選ばされていた、ですか」
 ルークは自分でそれを選んだのだと言っていたが、大人は彼が考えているよりもずっと汚い。ある選択肢を『自発的に』選ぶよう、他の選択肢に覆いをかけることなど容易いのだ。



 彼はきっとローレライを解放しこの世界を、人々を救うだろう。彼の功績は多くの人に讃えられ、長く記憶に留まり続けるに違いない。だが、彼の言う『世界』に彼自身は、そして彼の幸福を願う人々は含まれないのだろうか。
「始祖ユリア。あなたは世界を愛し、預言を詠んだ。あなた自身のいない未来をも愛した。ですが貴女を直接知る者は、あなたのいない未来で貴女の遺した預言を愛したでしょうか」
 薔薇色のユリア像は何も答えることなく、穏やかにジェイドを見下ろしている。
「私は形見などに興味はありません」
 世界を形見に遺されても、自分はそれを愛せまい。それは大人気ないことだろうか。子供がない頭を絞って出した結論を受け入れられないとすれば、彼はやはり悲しむだろうか。



 それを尋ねる勇気がどうしても出ないまま、砂時計の砂は落ち続ける。



 はるかさんちの萌茶で書かせて頂きました。元が超遅筆なものですからチャット中に書き上げられたのはもはや奇跡に近いと思います(笑)
 お題は 月暈オラトリオ 様からお借りしました。