夢魔
夜半過ぎ。ジェイドは宿の部屋に戻ってきた。今日は彼が1人部屋であったので、中の者を起こさぬよう気を使う必要はない。
『おかしいですね……今日はルークと相部屋だった筈ですが……』
内心の疑問などまるでないもののようにジェイドはドアを開け、中に入った。
暗い室内に人の気配。やはり思い違いではなかったのか。しかし、部屋の内装に覚えがない。そもそも、明日の出発が早いために今日は全員早めに休んだ筈だ。無論自分も例外ではなく。
記憶と食い違う現実。思い違い、というには矛盾点がいささか多い。
――夢。そうジェイドは結論付けた。
彼のベッドに人の気配。闇に慣れてきた目で見たものを認めたくなくて、夢の中の彼は小さな明かりをつけた。そして、後悔する。
「お帰りなさい。遅かったのね」
覚えのある女の声。一つしかないベッドに腰かけていたのは、死んだ筈の彼のかつての師であった。否、正確には先日倒したばかりの彼女のレプリカ。
「お前は……」
死んだ筈では。そう言おうとした唇は、麻痺したように動かない。
「私はまだ死んではいないわ。ねぇジェイド、ここにいらっしゃい」
女が手招きする。本人の意思とは裏腹に、ジェイドの足はふらふらとベッドへと導かれていった。
「ほら、ここに座って。疲れているでしょう?」
言われるがままに隣に腰を下ろす。危険なのはわかっているのに、抗えない。
――夢だ。そんなことはわかっていてもこれ以上こんなものは見たくない。悪夢なのはわかっているから早く覚めてくれ。早く!
けれど、その願いもむなしく、目覚めが訪れる様子は全くない。
「いい子ね、私のジェイド。さあ、ご褒美よ」
ネビリムは伸び上がって、水が流れるよりも自然にジェイドの唇を奪った。なまめかしい色の唇が一瞬だけ触れ、すぐに離れる。
ぺろりと自身の赤い唇を舐めると、ネビリムは小さな子供に噛んで含めるようなゆったりとした口調で告げる。
「あなたは私の被験者を殺し、2度も私を殺そうとした。けれど、私はまだ死んではいないのよ。もう一度乖離した音素を取り戻せば、今度こそ私は完全な存在になれる」
赦してあげるわ、ジェイド。
囁きはどこまでも甘くジェイドの耳に絡みつく。
「確かに私は被験者本人じゃないわ。だけど私と彼女は同じもの。彼女のことなら誰よりもよくわかるわ。ジェイド、あなたよりもね」
私なら、あなたが欲しがっている言葉をあげられるのよ。愛しげに彼女はジェイドを見つめている。その目は記憶の中に住む師の目と同じ、すぎて。
「あなたが認めさえすれば、ずっと一緒にいられる。そうでしょう?」
拒めばいい。否、断固として拒否せねばならない。しかし、ジェイドの唇は何らの言葉も紡ぎ出せず、意味もなく震えるばかり。意識が体から切り離されてしまったように動かない体は、ネビリムが静かに覆い被さってきてもなすがままであった。
「ジェイド……」
なぜだろう、声がだぶって聞こえる。
「おい、ジェイド!」
はっと目を覚ますと、心配そうに覗き込んでいるルークと目が合った。
「どうしたんだよジェイド、悪い夢でも見たのか?」
ジェイドは頭をはっきりさせようと起き上がり、小さくひとつ溜息をついた。
「そうですね……いやな、夢でした」
「そっか。珍しくうなされてたから心配になって起こしたんだけど、余計なこと、だった?」
「いえ、助かりましたよ。ご迷惑をおかけしました」
全く、うなされるなんて、らしくもない。内心でもう一度深く溜息をつきながら、ジェイドはいつものように微笑んでみせる。心配そうに揺れる瞳でこちらを見ている子供のために。
「もう大丈夫ですから寝なさい」
「けど……」
長く共に旅をしているせいか、はたまた彼自身悪夢に苛まれる日々を送ってきたためか、なかなか笑顔に騙されてくれない。
「明日は早いですからね〜。寝坊しても起こしてあげませんよ。次の目的地はケセドニアですから、頑張って船に乗ればすぐ合流できるかもしれませんが」
「〜〜何だよ人がせっかく心配してるってのに!もう寝る!」
ルークは憤然と自分のベッドに戻ってしまった。やはりまだまだ子供。簡単に誘導される性質が、今はむしろありがたかった。
時計を見れば起床予定時刻まで残り2時間半。早くも隣のベッドがら聞こえてきた寝息を確認してから、ジェイドは部屋を後にした。
『ジェイド……もう一度あの場所に来て頂戴』
『あの忌々しい譜陣』
『私はそこで生きている』
『待っているわ……可愛らしい、私の、ジェイド』
朝までに、過去の亡霊を振り払えるだろうか。
夢魔;襲われる人にとっての理想の異性像で現れるという。succubus。
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