冬の其方
大きな邸が炎に包まれていた。
「まったく、見てるだけで暑苦しいワ。冬だからまだいいけど」
ごちながら降り立った赤毛の死神は炎など存在しないかのような様子で歩みを進め、炎を吹き上げる窓から邸の中へと入る。
「さて次は、ヴィンセント・ファントムハイヴ……アラ、結構いい男じゃない。若いのに可哀想ねぇ」
目的の部屋の扉は半分以上が焼け焦げ、蝶番が歪んで床に崩れ落ちていた。足を取られないよう目で確認しながら木片をまたぎ越したグレルは、室内に立つ黒い人影を見つけて喫驚する。
「まさか生きてる……いや、別人?」
室内に立っている黒い人影は手元の資料にある写真とは似ても似つかぬ初老の使用人。どうやら目的の人物以外にもこの部屋には人がいたようだ。だが問題はない。死神の姿はそのままでは生きている者には視認できないので、自分はただ仕事をこなせば――。
「おや、お客様ですか」
「?!」
温和そうな顔をした老人がこちらを振り向いた。その焦点がしっかりと自分に合っていると悟ったグレルは思わず半歩後退る。
「な、何者よ、アンタ」
「ああ、申し遅れました。私、ファントムハイヴ家家令を務めております、タナカと申します」
「そ、そういうことじゃなくって!」
どうして逃げずにこんな所に留まっているのかだとか、こんな老人は死亡者リストになかった筈なのにだとか疑問はいくつもあったが、グレルの視線はタナカの手元に釘付けになった。
「ちょっとアンタ、それ……」
人間の魂が、タナカと名乗った人間の手に握られていた。
(ちょっと嘘、このジジイ、人間じゃないっていうの?!)
こんな猛火の中に平然と立っている点を除けばごく普通の人間にしか見えないが、魂を知覚し、手にするなど到底人間業ではない。しかも自分達死神とも違うとなると、もはや答えは一つしか――。
「ああ、これですか?
話すと長くなりますが……」
にこりとタナカが笑った途端、室内の空気がガラリと変わった。燃え盛る炎が黒く見えるくらいの瘴気。間違いない。
「私、あくまで家令でございます」
「嘘でしょ!
こんなの聞いてない!」
グレルはパニックに陥っていた。いつも通り魂を回収に来た筈が変な人間に遭遇したと思ったら、その正体は悪魔だったなんて、そんなレアケース聞いたこともない。古い記録にくらいは残っているのかもしれないが、そんな稀なケースに自分が遭遇するだなんて思いもしなかった。思いたくもなかった。
けれど現実は優しくなく、自分の目の前に立つのは紛れもなく悪魔。手にしている魂はほぼ間違いなく回収対象の魂だろう。
「その魂はアタシたち死神の回収リストに入ってるの。大人しく渡して頂戴」
ダメもとで言ってはみるが、老人は穏やかに、けれどきっぱりと首を横に振った。
「残念ながら旦那様は私と契約を結んでおりましてな。契約に従い、この魂は私が頂くことになっております」
「嘘……」
「残念ながら本当です。さあお若い死神殿、お引き取りを」
「って、そう簡単に引き下がれるワケないデショ!回収対象の魂をみすみす悪魔に獲られたなんてことになったらまたウィルにどやされるのは確実……いやそれどころか謹慎よ!
降格よ! とにかく処分は免れないわ!
冗談じゃないワよ!」
「それとも死神殿、この魂に見合う何かを貴方が私に提供して下さいますか?」
「え……?」
「別の適当な魂でもよし、他の、そうですね、娯楽でも結構ですよ。長く生きていると娯楽が不足しがちですからな」
「娯楽って……どういうこと?」
タナカは手にした魂を懐に仕舞うと、音もなく歩み寄ってグレルの手を取った。そのままワルツを舞うようにステップを踏む。
「それは自分でお考え下さい。あなたも子供ではないのでしょう?」
「ちょ、何よ、何なのよ!」
(何なのよこのジジイ!
悪魔に魂以上の餌があるワケないじゃない!)
きっとこのやりとりさえこの悪魔にとっては娯楽の一環に過ぎないのだろう。相手にするだけ馬鹿馬鹿しいが、魂だけは回収して帰らなければ。
「手始めにまずはお名前を教えて頂きましょうか、死神殿?」
「悪魔に名乗る名前なんて……ッ……グレルよ。グレル・サトクリフ」
「いいお名前です」
逆らえる気がしなかった。魂云々もさりながら、その強くて黒い目。穏和な笑みの仮面を被ってなお隠せないその視線は挑むように、というよりはむしろ値踏みするようにグレルを見ている。その間にも流れるようなステップは止まらず、善後策を考えようにもただ引かれる手についていくのが精一杯というありさまだ。
「どうすりゃいいのよ……ッ」
(助けて、ウィル…!)
炎の中でステップを踏みながら、グレルはただ目を閉じて同僚に助けを求めるばかりだった。
炎や死の舞は万物の融和であり、「天と地の結婚」「夫婦の結婚」(水之江有一『シンボル事典』より)
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