運命はいつも偶然のような顔をしてやって来る




 子供達が歓声を上げて公園へと走っていく。その同じ道を、ジェイドは彼らとは逆方向、街の外に向かって歩いていた。鼻の頭を真っ赤にしてすれ違う同年代の子供にさえ目もくれない。もともと彼らとは興味の対象が違うのだ。雪を踏みしめて歩く1人分の足跡は、朝を迎えた人々の笑いさざめきの中ではまったく目立たないものだった。


 暗い森に破砕音が響く。
「まずいな……」
 冷静に周囲の様子を探りながら、ジェイドはひとつ舌打ちした。
 ――囲まれた。
 先程譜術実験で吹き飛ばした魔物の血の匂いを嗅ぎつけてやって来たのだろうか。このあたりの魔物は単体ならば敵でもないが、集団、しかも囲まれているとなると厄介だった。
 そして。やはりというかなんというか。
 厄介なことになった。傷自体はごく浅く、もし今新手がやってきたところで撃退できる自信もあるが、傷口の付近が熱を持ち、赤黒く変色している。さっきかすめた牙に毒があったのか。生憎、解毒薬は持っていない。
 街まで戻れば薬もあるし、ざっと見たところ命の危険もなさそうだが、大人たちに見咎められるのだけは避けたかった。実験がやりにくくなる。

   「これであなたも危険だとわかったでしょう。心配をかけさせないで」
   「みんなと一緒に勉強するのはそんなに嫌なのか」

 大人達の反応は単純すぎて、笑い話の種にもならない。しかるべき時が来ればいくらでも研究させてやると彼らは言うが、そのしかるべき年齢に達するまで自分は無駄に時間を食い潰さねばならないというのか。冗談ではない。知らないことは、知りたいことはいくらでもある。数多の学者が人の命の短さを嘆いているというのに、むざむざその短い時間を更に縮めるなどと……断じて我慢ならない。
 不意に人の気配を感じた。
 近い。毒に気を取られていて気づかなかった。ジェイドは慌てて隠れる場所を探すが、そんな場所が都合よくある筈もなく。
 第一、気配はまっすぐこちらへ向かってやって来る。相手は既に自分の存在に気づいているだろう。
 すっぽりと雪に覆われ、雪の魔物のような外観をさらしている木の向こうから歩いて来たのは、見たことのない顔だった。
「随分コントロールのしっかりした術だったから、後任に推薦できればまた面倒が減ると思ったんだけど……これじゃあ上に連れて行く前に門前払い、よねぇ」
 暖かそうだが見慣れない織り模様のセーターを着た女。子供の自分には大人の年齢はあまり正確には掴めないが、それでもまだ三十路を足を踏み入れていないのは確実だ。顔だけ見れば一般市民のようだが、ただの観光客でないのは明らかだった。もちろん、町でこんな顔を、そしてこんな妙な気配を持つ人間を見たことは、やはり、ない。
「こんなに優秀な音譜術士なのにこの怪我、囲まれでもしたのかしら?」
「…………」
 治してあげよっか?と微笑みかけてくる女に敵意は特に感じられないが、それでも何者かわからないことには動けない。今は刺激しないことが肝心。そうジェイドは判断した。
「ジェイド・バルフォア。確かに賢そうで隙もないけれど……余裕もない、わね」
 教えてもいない名前を知っている。観察するような視線に体は自然強張った。
「街で妹さんが探してたわよ。帰郷したばかりの余所者にまで行く先を聞くくらいには一生懸命にね。街を出るまでの間に噂も沢山耳にしたわ」
 やわらかな癒しの光が足を包み込み、傷が癒えてゆく。第七音譜術士。その存在について本で読んだことはあるが、実際目にするのは初めてだ。今目の前にいる女が音譜術士の中でも希少なそれだと?
「細かな傷はそのままだけど、今後のことを考えたらあとは自然に治るのを待つ方がいいわ。その程度なら何とでも言い訳できるでしょう?」
 その後も二言三言何か話したような気もするが、傷を癒すだけ癒した後、いつの間にか彼女の姿は見えなくなっていた。意識がぼんやりしていたわけでもないのに、一体いつ帰ったのか皆目わからない。


 珍しい他国の書物を多数蔵したダアトからの帰郷者がいるという噂を聞いたのは、その3日後のことだった。


End


山野の中で、しぇんしぇいはケテルブルク出身者ということになっています(捏造設定)