葉巻




「『家令とは邸の家事一切を取り仕切るものであり、その立ち居振る舞いは英国紳士の模範といえるものであるべし』……か」
 葉巻を燻らせながら本を読んでいたまだ若い紳士が泣きぼくろのある目元をほころばせて顔を上げた。朝からずっと曇っていた空からはついに雨が落ち始めたようで、まだまばらな雨粒が窓のガラスを叩いている。
 静かにノックの音がして、恭しげに手紙の束を捧げ持った初老の執事が入室した。
「旦那様、今日もお手紙が届いております」
「後で読む。ところでタナカ、あれからうちの家令にふさわしい人材は見つかったかい?」
「残念ながら、まだ」
「そうか……だからさ、前から言ってるように、お前が家令になってくれれば万事解決なんだ。大して仕事が変わることもない。というか、家令不在の今よりもむしろお前が家令に昇格して新しい執事を雇えばそれだけお前の仕事は楽になると思うんだけどね」
 しかしタナカは首を縦には振らない。
「私はあくまで執事でございますから」
「お前も本当に強情だな。レイチェルといいディーといい、どうして私の周りにはこう頑固者が多いんだ?」
 手元から紫煙を細く立ち上らせながらヴィンセントがやや大袈裟に肩をすくめても、執事はまるで動じる風もない。
「きっと旦那様のお人柄でございましょう。適切な人材が見つかるまでお邸の運営が滞るようなことはいたしませんので、ご安心を」
「そりゃあお前に任せておけば家令がいなくても不都合はないだろうさ。けれどね、レイチェルがお前の多忙ぶりを心配しているんだよ。お前一人に任せきりではいずれお前が体調を崩しやしないだろうかとね」
 まさか本当のことを言うわけにもいかないだろうと、それだけは口にせず目で伝えた。その意思は正しく酌まれたようで、タナカは目を伏せてしばし考え込むそぶりを見せた。
「なるほど、奥様が……」
「だいたい、国中探したところでお前以上にふさわしい人間なんて見つかりっこないんだ。そのことはお前が一番よくわかっているだろう?」
 あらゆる能力において、人間は悪魔にかなわない。それは厳然たる事実だ。あと一歩で押し切れる。そう考えたヴィンセントは、ふと手にしている葉巻に目を留めた。
「タナカって葉巻が似合いそうだよね」
 にやりと彼にしては人の悪い、だが傍目には天使のような笑みを浮かべて、ヴィンセントが葉巻を目の前にかざしてみる。今のタナカの風体では明らかに浮いているものの、服装さえそれらしく整えればどこに出しても恥ずかしくない紳士に見えるだろう。ましてタナカは悪魔だ。誰が見ても一流の紳士として振る舞うことはごく容易いことに違いない。
「うん、似合う。間違いないよ。ちょっとこれ、咥えてみてごらん」
 差し出された葉巻を、しかしタナカは受け取ろうとしなかった。
「お戯れがすぎますぞ、旦那様。主の葉巻に手を出す使用人がどこにおりますか」
「私がいいと言っているんだからいいんだよ。それともタナカ、お前は主人の命令を聞けないとでも?」
「旦那様……」
 それでも執事はしばし不動を保ったが、やがて諦めたように火がついたままの葉巻を主の手から受け取った。使用人を演じるよう命じておいて何を考えているのかとこの悪魔はあきれているだろうか。読めるはずもない悪魔の胸中を想像してヴィンセントは愉快そうに微笑んだ。
「さあ、早く」
「………………」
 いかにも渋々、といった様子でタナカが伏し目がちに葉巻を口に運んだ。そのまま煙を吸いこんで、ゆっくりと紫煙を吐き出す。執事のいでたちであることを無視すれば、その姿はこの上なく様になっていた。
「……旦那様は、これを美味しいと感じるのですか?」
 言葉の上ではヴィンセントに限定しているが、この疑問は人間一般に関してのことだろう。
「私はそう美味いとも感じないけどね。貴族の嗜みなんてみんなそんなものなんじゃない?」
 ヴィンセントはタナカから葉巻を受け取り、指先で弄びながらもう一方の手で開いていた本を閉じ、本を机の脇にどけて置いた。
「さて、手紙を読み上げてくれ。面白そうな用件はあるかな?」
「御意、旦那様」
 まるで何事もなかったかのような様子でタナカは一通目の手紙の封を切った。



最後のタナカさんのセリフは「イエス、マイロード」です。