サロメとレイヴン




 三日月を水平にしたような形に口元を吊り上げた死神が、化粧筆にたっぷりと赤い液体を含ませながら笑う。手にしたシャーレの中で真っ赤な血が僅かに波立つ。
「ねぇセバスちゃん、お化粧は初めて?」
 至極上機嫌なグレルとは対照的に、後ろ手に縛られ椅子に座らせられているセバスチャンの表情は硬く、人一人くらいは容易く殺せそうな視線を赤い死神に突き刺していたが、当の死神は全く意に介していないらしく、こらえ切れない笑い声を鋭く尖った歯の間から零しながら手にした化粧筆でセバスチャンの唇に鉄臭い血液をべったりと塗りつけた。
「フフ、思った通りね。やっぱりアナタにはこの色がよく似合うワ」
 ぬめる感触が不快なのか、セバスチャンは眉をひそめて顔を背け、唇の端から赤い血がつ、と一筋流れ落ちて白いシャツに小さく衣魚を作った。
「アラ、動いちゃダメよセバスちゃん。はみ出しちゃうじゃない」
 からかうような口ぶりでグレルはセバスチャンの頬にも筆を滑らせる。セバスチャンの唇から頬にかけて、どろりとした血がかすれ気味の太い線を描いた。
 セバスチャンの手首を椅子に縛りつけているのは何の変哲もないただの紐。普段の彼に対してはこんな戒めなど何の役にも立たないが、今回ばかりは動くわけにはいかなかった。呼び出された暗い部屋で見せられたシネマティックレコードの小さな欠片。グレルの懐に収まっているそれが今は事実上のくびきとなっている。
「……さすがに大人しいわね、セバスちゃん。あの坊やがそんなに心配?それとも、ただ単に他者に契約を破られるのがイヤなだけ?」
 まあ、アタシにとってはどちらでも同じことだケド。楽しげに笑む顔はひどく酷薄で、ファントムハイヴ邸に居候していた時の様子からは想像もつかない。だが、彼はその頃から動いていたようだ。切り裂きジャックの片腕として、だけではなく。
「これがコピーならいくら切り刻んだって本人に影響は全くないんだけど、原本はねえ。切ったらどうなるかなんてアタシ達みたいな下っ端には知らされてないのヨ」
 数え上げればきりがない執事修行中の失敗の中で1回だけ、グレルがシエルに傷を負わせたことがあった。気付くと同時にセバスチャンが消してしまえるほど小さな傷ではあったのだが、その時にこの死神はシエルのシネマティックレコードの一部を盗み取っていたらしい。
「あの時はまさか使う機会があるなんて思ってもみなかったケド、何でも持っておくものね」
 満足そうなグレルの笑みが更にセバスチャンの苛立ちを誘う。
「ああ、そんなに唇を噛み締めないで。今のアナタ、とっても素敵よ。セバスちゃん!」
 なんとかあれを奪うことができればこんな状態に甘んじてはいないのだが、死神もそのことは理解しているのだろう。機嫌よさそうに振舞いつつもなかなか隙を見せない。事実上の人質を取られている以上、今セバスチャンにできるのはただ、睨めつける視線で死神の隙を窺うことだけだった。
「大人しくてもつれないのは相変わらずなのね。ヨカナーンの首を欲しがるサロメの気持ちも分からなくはないワ」
 拒まれれば拒まれるだけ、欲しくなる。そう言ってグレルは化粧筆とシャーレを放り出し、その拍子に血の飛び散った手でセバスチャンの頤を掴み上げ、その唇を貪った。


「ああ!あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。お前の脣はにがい味がする。血の味なのかい、これは?……いいえ、そうではのうて、たぶんそれは戀の味なのだよ。戀はにがい味がするとか……でも、それがどうしたのだい?どうしたというのだい?あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたのだよ」
(O・ワイルド『サロメ』より)


 初めてグレセバっぽいものが書けたような気がした作。