狂犬の正しいいなし方




 ハム。トマト。タマゴ。ディーデリヒが次に手を伸ばすのはどのサンドだろうかと考えながら、ヴィンセントはチェス盤の向こう側から惜しみなく投げつけられる小言を聞き流していた。
「大体貴様は緊張感がなさすぎる。貴様の部下はその笑顔に騙されているのか知らないが、油断しているとロクなことにならんぞ。そもそも……」
 次はタマゴだった。絶え間なくサンドイッチを口に運びながらも、ディーデリヒの小言は一向に途切れる気配を見せない。
(話と食事を同時進行できるなんて、ディーって結構器用だよね)
 目の前の相手がこんな事を考えていると知ったら、ディーデリヒの小言は怒鳴り声に変わるだろうか。くくっと思わず笑みがこぼれそうになって、ヴィンセントは慌てて表情を神妙に取り繕う。
 そこへ、客人の訪れを告げる家令の渋く落ち着いた声が割って入った。
「客?……ああ、お前か」
 うっとうしそうに眉をしかめたディーデリヒがヴィンセントに視線をやる。彼のもとへ客が来ることは前の晩から聞かされていたことだった。
「うん。ごめんねディー。続きはまた後で」
「勝手にしろ」
 相変わらずのんびりとした声で詫びながら席を立ったヴィンセントを見送ったディーデリヒは、ドアがぱたんと閉まるのを横目で確認すると、ゲーム途中のまま置き去りにされたチェス盤を睨みつけた。相変わらず性格の悪い駒運びだとあきれたようにこぼす声を聞く者はない。

 

「君は本当に子供っぽさが消えないね」
 別室でヴィンセントに書類を手渡したクラウスは、資料に顔をうずめんばかりの勢いで文字を追っていく相手の様子に苦笑をもらした。
「そう?」
「ああ、先日ある子にイタリアからゲームをもっていってあげたんだが……やっぱり、よく似ているよ」
 その子供の反応を思い出したのだろうか、クラウスが顔をほころばせる。一方でヴィンセントは、まさに新しい玩具に夢中になっている子供そのままの様子で書類を次々とめくっていく。
「さて、そろそろ私は失礼しようかな」
 上着を正したクラウスの言葉で、やっとヴィンセントが顔を上げた。その目は驚いたように見開かれている。
「え、もう帰るの?せっかく来たんだからもう少しいればいいのに。ひょっとして忙しい?」
「いや、話の途中に割り込んでしまったようだからね」
「ディーのことなら気にしなくていいよ。どうせ叱られてるところだったし」
 にっこりと天使のような笑みとともに伸びた手がクラウスの背後から胸元に回された。つい先ほどまでヴィンセントが夢中になっていた書類は、いつの間にか机の上に置き去られている。
「久々なんだからもう少し話していたいんだけど……駄目かな?」
 クラウスが肩越しに振り返った先で、ねだるような目がクラウスの視線を掬いあげた。もっとかまってほしいと、気紛れな猫のような瞳を光がくるりと一周する。思わず呑まれそうになるが、そう簡単に理性を手放してしまうほど血気盛んな年頃はとうに過ぎたとクラウスは苦笑する。
「残念だが野暮用もあってね。今日はこれまでだ」
「そう。じゃあまたね、クラウス」
 ヴィンセントも深入りはしてこない。大人というよりも彼の場合はもともとこういう性格なのだが。去る者は追わない。
 ひらひらと手を振るヴィンセントを尻目に、クラウスは部屋をあとにした。


自覚のあるクラウス、自覚のないディーとパパ。