女王の覚醒




 薄暗い自室の天蓋の中で、女王ヴィクトリアはふと目を覚ました。あたりはしんと静まり返っており、アッシュが戻っている気配もない。それでも執事の姿を探して視線を彷徨わせれば、身を起こした自分の真下に、力なく横たわる事切れた少女の姿が見えた。よく見慣れた自分と同じ顔をしたその体の腹部から分かれて生えたような半透明の体で、女王は自らの死体を見下ろしているのであった。それを見て思い出す。ああ、自分は既に死んだのだった。
(死神は迎えに来ないのかしら……?)
 人が死ぬとその魂は死神に回収されるのだとアッシュから聞いていたが、それらしいものがやって来る気配もない。
(そうだわ、アッシュはどこへ行ったの?)
 女王は寝台から降りようとしたが、何かに弾かれるかのごとく、床に足をつけることはできなかった。あれこれと角度を変えて試してみるもそれはかなわず、ただ、自分が今自由に動けるのはこの寝台の上のみであるということがわかっただけであった。これではアッシュを探すどころか、自分が意識を失ってからどれくらいの時間が経ったのかを知るすべもない。
 ふいに銀色の大きな何かが壁を突き抜けて室内に現れ、驚いた女王は自らの死体の上に、正確にはそれをすり抜けて寝台のリネンの上にしりもちをついた。
(これは……アッシュが従えていた魔犬?)
 ロンドンの街を火の海にした銀色の魔犬は、その凶悪さなど微塵も感じさせない様子で尻尾を振りながら女王のもとへと近寄ってくる。その視線が女王の死体ではなく女王自身の瞳をとらえているのを見た女王がこわごわと手を伸ばしてその頭を撫でてやれば、魔犬は機嫌よさそうに喉を鳴らした。
(さわれる?ということは、この犬も私と同じく、死んでいるの……?)
 ますますアッシュの安否が心配になる。いったいどこまで行ってしまったのだろうか。否、ひょっとしたら、もう……。
「……おまえは自力で動けるのね。ねえお願い、私を乗せてロンドンの街を見せて!」
 この魔犬が人語を解するのかどうかは定かではなかったが、嫌がってはいないようだったので、女王はその背へよじ登る。銀色の長い毛がふかふかして心地いい。振り落とされないところを見ると、魔犬も女王をその背に乗せることを嫌がる様子はないようだ。
「さあ、行って!」
 女王の声に応じて、魔犬は一跳びで宮殿の壁を突き抜け、ロンドンの街へとその身を躍らせた。急に開けた視界に朝日の光がまっすぐに飛び込んできて、目がくらんだ女王はしばし魔犬の背中へ顔を伏せる。日は既に高く、ロンドン中を炎が包んでいたその時よりも辺りは明るくなっていた。
 魔犬は風のような速さで街を疾走する。街中を焼き尽くした大火ももうほぼ鎮火したらしく、ところどころでまだくすぶりが細い煙をあげているばかりである。やっと光に慣れて顔を上げた女王の目には、朝日と共に活動を開始したのだろう人々の姿もちらほらと見てとれた。しかし、ロンドン中を駆け巡ってもなお、アッシュの姿は、どこにも見当たらない。
(アッシュはどこ?)
 女王を乗せた魔犬は中空を駆ける。風のような速さで走る彼女らの姿は市民の目にはまったく映っていないらしく、焼け出された人々にパンをふるまう慈善家も、泣きはらした目で親を探しているらしい子供も、誰もこの街を焼き払った魔犬に注意を向ける様子がない。
「どこにもいない……ねえ、アッシュは敗れてしまったの?」
 魔犬に問いかけるが、答えは返ってこない。魔犬はただ、女王を乗せて街中を駆け巡るだけ。そして焼け野原となった街では、人々がただ自らの生活を取り戻すために動き始めているばかりである。
「……アッシュ、私たちがめざしたものとは異なるけれど、これこそが神の国の光景なのかもしれないわ。あれほどの猛火に焼き払われても、人は滅びず手を取り合って生きていく」
 女王の目にもはや冷たい狂気の光はなく、高みから人々に向けられる視線はどこまでも慈愛に満ちている。彼女にそれを指摘する者こそなかったが、女王の表情はまさに憑き物が落ちたような風情であった。
「死神も迎えには来ないようだし、ねえ、私たちはこのままこの国の行く末を見守っていきましょうよ。おまえもそれでいいかしら?」
 女王が撫でてやると、魔犬は機嫌よさそうに喉を鳴らし、また大きく中空を蹴った。

 

 一方、焼け残った宮殿の尖塔のてっぺんに、これまたヒトの目には映らない人影が二つ。
「ちょっとウィル、アレはほっといていいワケ?」
 二人のうち赤毛の方が街を駆ける魔犬と少女を指差せば、黒髪の男は苦々しげに眉をひそめた。
「魂は通常、自らの意思で移動することはできません。他者とシネマティックレコードを繋ぎ合わされた魂と魂の定義を外れた魂。どちらも死神図書館に収めることができない以上、回収しても処理に困るだけです」
 極めて事務的な口調でそれだけ言うと、ウィリアムは高枝切り鋏のような形をしたデスサイズの刃先でスクエアな黒縁の眼鏡フレームを押し上げる。
「……後始末がまだ残っています。行きますよ、グレル・サトクリフ」
 そして二人の死神も姿を消し、魔犬と共にロンドンを駆ける女王と魔犬の魂は回収されることなく残されたのであった。


天使に駒として利用され果てた者たちに与えられたささやかな救済。