クォーレル
「邪魔するよ。アンタが出してた試算書だけど――」
ノックと同時にドアを開け、ディストの執務室へと入ったシンクは、1歩入ったところで足を止めた。仮面の上からはその表情は窺い知れないが、口が微妙にへの字になっている。
「……何が悲しくて………貴方など……恨みが………」
机に向かい、何やら書き物をしながらぶつぶつと呟き続ける男が1人。99,9%恨み言だろう。まさか泣いてはいないだろうが、微妙に鼻声だ。近寄り難い、というよりむしろ近づきたくない雰囲気を醸し出している。なぜドアを開ける前に気付かなかったのだろう。シンクは内心で部屋の頑丈な扉と厚い壁を呪った。
と、人の気配を感じたのか、ディストが机から顔を上げた。
「おや、シンクじゃありませんか。どうしたんです?」
何事もなかったかのような声音に、逆に自分の方がうろたえてしまう。まさか今見た光景は白昼夢だったとでもいうのか。
「シンク?」
言葉を返さないシンクを不審に思ったのか、ディストがペンを置く。
「何かごよ……」
「試算書。誰が間違えたんだか知らないけど、僕のところまで上がってきたんだ」
シンクは内心の動揺を押し隠し、やや硬い声音で本題に入った。
「出しといてやる義理もないから返しに来たんだけど。まったく、部下の教育ぐらいちゃんとしてよね」
書類を渡すと、ディストは素早く書面に目を走らせる。視界の隅に書きかけの日記帳らしきものがちらりと目に入るが、内容までは読み取れなかった。もっとも、読めと言われたって読む気はしないが。どうせくどくどとどうでもいい繰り言が書かれているに決まっている。
「ああ、これですか。未提出扱いになっていて先程新しいのを提出させたところです。まさか貴方のところにいっているとは思いませんでした」
まあ私にとってはこんな書類の1枚や2枚、どうなったって大した問題はありませんが。人の神経を逆撫でする口調は相変わらずだ。シンクにとってはディストの口調などほぼどうでもいいが、このまま何も言わずに帰るのも癪だったので、一言言ってやることにした。
「どれだけ仕事ができるんだか知らないけど、だからって仕事中に変な落書きするのはやめてよね。そんなことする暇があるなら次の兵器でも設計してる方がよっぽど建設的じゃないの?」
「落書きとはなんですか落書きとは!」
案の定ディストはすぐに食いついてくる。もういい年の筈なのにどうしてこうも子供のような感情表現をするのか。シンクにはまるで理解できない。
「事実落書きじゃないか。少なくとも仕事には何の関係もないと思うんだけど」
「キィイイィ!!落書きじゃありませんよ!腹の立つことがあったので復讐日記につけていたんです!」
もちろん今の貴方の無礼な発言もつけておきますからね!つい先程までぶつぶつと暗い表情で日記を書いていたとは思えないほどヒステリックに喚く声。馬鹿らしいとは思いつつも、シンクはさらに畳み掛ける。
「別にあんたの趣味なんてどうでもいいけどさ、それを勤務中にするのはどうかって思うだけ。アンタも一応給料貰ってんでしょ?」
「その辺の凡人ならともかく、この美しい天才の私はあくせく働かなくたって給料分の仕事くらい簡単にこなせるんです!貴方こそこんな所で油を売っている余裕があるんですか?!」
「残念だったね。僕はもう今日はこれで上がるんだ」
「だったら人の邪魔をせずにさっさと出て行って欲しいものですね!」
「言われなくたってすぐに出て行くさ」
シンクは踵を返した。ああ、なんだって自分はこんな下らない言い合いをしているのだろうか。書類さえ渡してしまえばもはやここに用はない筈だったのに。そうだ。思い出した。
「アンタのその独り言、いつか苦情が来るからやめた方がいいよ。アンタはどうでも周りが迷惑だし」
事実、今まで苦情を言う者はいなかったのだろうか。
「アンタの下で働かなきゃならない部下が気の毒だよ。じゃあね」
ぱたん。ドアが閉まる。
「ムキ――!!貴方に言われる筋合いではありませんよ!覚えていなさい!」
怒りの声はドアに阻まれて相手に届くことはなく、ディストは猛然とペンを取り、今の出来事を書き記し始めた。
quarrel:口喧嘩。怒りと聞くとネガティブなイメージがあるが、心の状態としてはむしろポジティブな状態であるとの見方もある。
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