別れ路の酒




 ――暫しの別れ、にしたい酒。けれど彼は知っている。この酒が、今生の別れになる。そのために自分は彼を送り出すのだ。この杯は永久の餞別となろう。

 

 月は既に高かった。ジェイドがキムラスカへと旅立つ前の夜、ピオニーはいつものようにジェイドを部屋に呼び出した。任務前に与えられる24時間の自由時間。誰が求めるでもなく、ジェイドがその最後の数時間を過ごすのは常にそこと決まっていた。
「……おや、こんな強い酒を出して、出かけた早々私が迷子になることでも狙ってらっしゃるんですか陛下?」
 ジェイドは琥珀色の液体で満たされたグラスを胡乱な顔で眺めている。今宵皇帝が用意させたのは飲めば喉が焼けつくような蒸留酒。任務を控えた者に勧めるべき代物では到底なかった。
「馬鹿言え。誰がうちの大事な危険人物を野放しにするもんか」
 そんな奇妙な状況下でも、いつものように茶化してやればジェイドもまたいつものように溜息をついた。
「酔ってますか?……ああ、酔ってらっしゃるんですね」
「俺は酔ってなんかないぞー。お前こそそれじゃ足りんだろうが。まあ飲め」
「酔っ払いは全員そう言うんです。二日酔いしても知りませんよ」
 ピオニーの顔はすっかり赤らみ、酔っていることは誰の目にも明白であったし、彼自身にもその自覚は確かにある。けれど、いくらアルコールを摂取しても言葉の箍だけは外せなかった。

(愛してると、どうしてそれだけのことが言えないのか)
(言ったらジェイドが気付いちまう)
(不信感を抱かせたら最後、隠し通せる自信はねえんだ)

「さくっと済ませてちゃっちゃと帰ってこいよ」
「陛下こそ、私が帰ってきたら城がもぬけの殻だった、なんて事のないようお願いしますね」
「おいおい、出かけていく人間に心配されるほどあくどい政治はしてない筈なんだがな」

(ああジェイド、気付くな。気付くんじゃない)
(お前は知らない筈だ)
(せっかく知らないのだから知らないまま出かけてしまえ)

「さあ、どうですかねー。ブウサギに玉座を譲るなんて本気で言い出しかねない方がトップですと、色々考えることもありまして」
「ほう、だったら次のお前の上司はどいつがいい?可愛い方のジェイドか、それともサフィールか……ルークはまだ新入りだからさすがに荷が重いだろうがなー」
 茶化して誤魔化しはするも、ピオニーは冷やりとした汗が背筋を流れる感覚を禁じえなかった。ジェイドは知らない筈の秘預言。長きに渡って隠され続けてきた未来図。自分とて偶然知っただけだというそんな代物を彼が知っている、筈など。

(そうだ、やはり知っている筈がない)
(感謝するぜ、始祖ユリア)
(俺があいつを生かしてやれる)

「……どうかなさいましたか、陛下?」
 ジェイドの笑顔はいつもと同じく不透明で真意が見えない。
「別に。いや!きっと俺はまだ飲むべきなんだ。ジェイド、次持ってこい」
「やれやれ、私はバーテンダーではないのですがねぇ」
「他人事みたいに言うなよ。お前も飲むんだから」
 今は楽しく酒を飲んでいつものようにジェイドを送り出せばいい。そう、いつもと何も変わらぬように。彼が途中で何か勘付いて引き返してきたりしないように。

(俺の愛は国民に与えた)
(俺の命は国に捧げる)
(然れども、死んだ後の魂だけは死霊使いにくれてやる)

 

 ――彼が真意を隠す酒。けれど私は知っている。戦争など、起こさせない。そのために私は旅立つのだ。この深酒もあくまで暫しの別れ。

 ピオニーはこんこんと眠っている。頬の赤みはいまだ褪せず、うっすらと汗ばむ額に張り付く髪を冷たい指で払っても、何の反応も示さなかった。あれだけ飲んだのだ。明日は日が高くなるまで目覚めまい。
 ジェイドは眠るピオニーの前髪を払うと、アルコールの効果で血が駆け巡る熱い唇にくちづけ、静かに部屋を後にした。ああ、遠くひばりの声が聞こえる。


 そして、朝が訪れた。


別路(わかれじ);@人との別れ。Aこの世と別れて冥土へ行く道。