手を振り払う気力もない




 赤い目の悪魔に唇を食まれる。粘ついた音が耳につき、不快感もぬぐえないが、顔を背けることはやめておいた。ここは一番穏便かつ迅速に話を終わらせるのが最も得策だ。だがヴィンセントの口付けは次第に深くなってゆくばかり。いい加減には離してもらいたくて、しつこい、と非難の意を込めて目を開けると、清明な光をたたえた赤い目と目が合った。
「あ、息苦しかった?君に限ってそれはないよね、ディーデリヒ」
「確かにそれはないがそもそも不快だ。さっさと離せ」
「え、私下手かな?うーん、身持ちの堅いドイツ美人の手管がどれほどのものかはわからないけど、私だってそう捨てたものじゃないと思ってたんだけどね」
「そういう問題じゃない」
 落胆しているように見える様子は嘘とも本気ともつかないが、唇が離れた隙を逃さず、ブラウンのコートの細い肩を押しやる。この不毛なやりとりもこれで何度目だろう。回数など数えたくもないが、
だが、他の者が本気でこの悪魔のような男の毒牙にかかるようなことがあっては寝覚めが悪いので、毎回ずるずると悪の貴族との不毛極まりない戯れは今もなんとなく続いてしまっている。ただでさえ忙しいのにこちらは海を越えて呼びつけられているのだ。話だけ聞いてやったらさっさと帰りたい。
「話があるんじゃなかったのか」
「そうだね。ちょっとばかり厄介な問題だ。けれど君はちょっと短気が過ぎるんじゃないのかい?さっき話しかけてきた紳士も脅かしちゃったみたいだし、むやみを敵を増やすような態度は処世術としてあまりうまい手じゃないよ」
 爽やかに笑う姿はさながら天使か御伽話の王子様か。しかしその目が冷たい闇を映してなお天使の笑みに擬態しているという事実を自分は知っている。一度でも彼の裏の顔と対峙したことがある者ならば、粘ついた鉄錆の臭気がその赤にまつわりついていることが知れるだろう。知らない方が幸せな事実だ。
「君がもう少し温厚に構えていれば誤解されることも少ないだろうに、残念だな」
「あいにく俺はこの性格を変えるつもりもなければお前の与太話に付き合ってやる必要性も感じていない」
 のらりくらりと話をそらされるのでつい言葉もぞんざいになる。彼とて決して暇なご身分ではないだろうに、どうしてこうも能天気な風情をみせるのか。
「さて、そろそろ本題に入ろうか。ここまで来る途中で君も少しは耳に挟んだかもしれないけど……」
 前置きだけで既に疲れたが、ヴィンセントの表情が一変して真剣なものになったのでこちらも話をまともに聞いてやる姿勢をみせる。世を憂う天使のようなこの表情があくまで人を話に引き込むためのポーズでしかないことは既に承知の上ではあるけれども、こちらも仕事だ。それに、どうせ片手間で済むような用件でないことは間違いない。

 

 思った通り厄介事を押しつけてきた悪魔はこちらの苦々しい表情をものともせず、ただ了承の返答に対して花のような笑みを咲かせた。
「君なら引き受けてくれると信じてたよ。期待してる」
「話はそれだけか。なら俺はもう行くぞ」
「ちょっと待って。忘れ物」
 席を立った俺の袖口を引き、ヴィンセントがこちらを見上げてくる。忘れ物も何も、自分は何も持って来ていないというのに、何のつもりだろうか。
「私の主君は既にいるから常に君に忠実でいられる保証はないけれど、私は君がとても好きだよ」
 そして掌へ落とされたキスの意味。それこそ、思い出したくもなかった。


“私は貴方に欲情しています”