揺らぎの月
机に突っ伏して眠っていたジェイドはむくりと身を起こした。二、三度瞬きを繰り返してぼんやりとしていた意識を覚醒させる。
――眠っていたのか。
だんだんと記憶がはっきりとしてくる。そうだ、酔った自分はベッドにも入らぬまま寝入ってしまい、そして。
ネビリム先生の夢を、見ていた。
頬に触れると僅かに残る涙のあと。目を冷やさなければ。そう思った。気付いてみれば喉もひどく渇いている。不自然な姿勢で固まっている体をぎしりと持ち上げ、ジェイドは洗面台へ向かった。時計を見ればまだ夜明け前。軍の朝は早いが、今から冷やせば目の腫れもすぐに治まるだろう。
幸せな、夢だった。ジェイドは先程まで見ていた夢に思いを馳せる。やわらかい師の言葉が彼を赦し、なぐさめた。あたたかな幸福感はしかし、目覚めた彼の思考の中には苦い罪悪感をも連れてきた。
甘い夢を見てまで、救われたいか。自分は。
しかし、それでもなぐさめられたのは確か。
相反する感情の渦を洗い流そうとするかのようにジェイドは冷たい水で顔を洗う。水気を拭った彼の表情は、普段と変わらぬ軍人ジェイド・カーティスの顔に戻っていた。
あれから数日が経った夜。しばらく安眠の恩恵を受けていたジェイドは、久しぶりに覚えのある気配を感じ、振り返った。ネビリム先生、ではない、彼女のレプリカ。以前と同じように現れた彼女は、しかしどこか様子がおかしい。
「久しぶりね、ジェイド。いえ、10日ほど会っていないだけだから久しぶり、とは言えないかしら」
艶めいた声はいつもと同じ。
「答えろ。お前は何がしたい」
ジェイドが睨みつけ、硬い声で問うても彼女はまったく動じずに彼を見返している。
「言ったでしょう?あの岩まで迎えに来て頂戴って。もう待つのは沢山よ」
繰り返される問答もいつもと変わらず平行線。特に変わったところは見当たらないのに、なぜか違和感が拭えない。どこだ。普段と何が違う。
じっとネビリムを観察していたジェイドはしばしの後にやっと気付いた。いつも彼を追い詰めるように近付いてくるネビリムが、今日はなぜか一定の距離を保ったまま、まるで近付く気配を見せないのだ。試しにこちらから近寄ろうとすると、ジェイドが踏み出した歩数の分だけ彼女は後ずさった。
いつもと異なる行動は、往々にして何かの前触れ。彼女のこれまでに行動から察するに、その何かがいいものであろう筈はない。
「何を企んでいる」
ジェイドの厳しい視線がネビリムを射抜く。しかし、その目はすぐに見開かれることとなった。
「まあ怖い。昔は……いえ、今だって私の被験者に対してはあんなに可愛らしい顔をしていたのにねぇ」
今。彼女は今何と言った。
「なぜお前がそれを知っている!」
激昂したジェイドの声が部屋に響いた刹那、ネビリムはまたあの笑みを浮かべた。赤い唇が異様に吊り上がった、あの。
「あなたのことはなんでもわかるわ。私のジェイド」
「はぐらかすな。答えろ」
ジェイドの血管がどくどくと波打つ。全身の血液がめぐり方を変えて、手足の末端が冷えていくかのような錯覚が生まれる。まさか。
まさか、あの夢は彼女が見せたものか。冗談ではない!
怒りか羞恥か、何か熱い感情がジェイドの体内を暴れ回る。すると、ネビリムが突然声のトーンを落とした。
「……ねぇジェイド、本当に私では駄目なの?」
ネビリムの顔から笑みは既に消えている。
「あの子供のレプリカは愛せたのに、どうして私を愛せないの?」
聖なる焔の光。人形として生み出され、先の戦いで自ら命を散らした子供。最後に見た顔を思い出してしまい、ジェイドの赤い瞳が一瞬揺らぐ。
「私を生み出したのはあなたなのに」
ぐずる子供のように糾弾する彼女の声が、今はもういない子供の声と重なる。
「あなたしか、いないのに」
「黙れ!」
響く怒声。これ以上意識をかき回されるのはごめんだった。ネビリムがうつむき、沈黙が落ちる。
「……代わりでも、いいわ。ジェイド、私を捨てないで」
「お前は先生ではない。先生は……死んだ」
苛々する。
「あなただって、本当はまだ夢を見たいんでしょう?」
それは誤りだ。誘惑するな。
「私なら被験者の代わりにあなたを慰めてあげられる」
何を根拠に、そんな。
「だってあなたは泣いたじゃない。私の、言葉で」
――空気が、凍った。
月は姿を日々変える。また、古代日本において月は「月」=「ツク」=「憑く」であった。
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