リップクリーム
先程までコンタミネーション現象について話していたジェイドの唇に、ピッと小さな赤い線がきざまれた。見ればその唇はひどく乾燥していて、どうやら話している間に切れてしまったようだった。
しかし当人はといえばまるで気にした様子はない。まさか気付いていない訳ではあるまいが。
「あなた随分唇が荒れていますよ。手入れくらいしたらどうです」
他人事ではあるのだが、ディストは耐えきれず指摘した。
「おや、気になりますか?」
やはりジェイドはわかっていて放置しているようだ。
「当たり前です!がさがさして気持ち悪いじゃありませんか!」
「そうは言われましてもねぇ。これから暫くは乾燥地帯を行きますので、手入れをしてもきりがないんですよ」
確かにちょっとひどいですけどね。そうは言うけれどこちらの言い分を聞き入れたりはしない。昔からそうなのだ、彼は。しかし、だからと言って見過ごせない。見てしまった、以上は。
「それでもです!そんな状態のまま帰るなんて許しませんよ!」
「妙につっかかりますね。キスした時のことでも考えたんですか〜?」
「っな……!」
意地の悪い笑みを直視してしまい、ディストの頬が真っ赤に染まる。
「そ、そんな訳ないでしょう!適当なことを言って煙に巻こうなんて、そんな手は食いませんよ!」
ディストは服の隠しから小さな容器を取り出した。
「私が塗ってさしあげます。ありがたく思いなさい!」
ジェイドは相変わらずの笑みのまま、ひとつ息を吐き出した。
「かわいげがないですねぇ。ですがまあ、お願いしましょう」
「それじゃ、こっちを向いて下さい」
くるくるとリップクリームの蓋を開けながら、ディストはジェイドに近くの椅子をすすめた。
「あ、目は一応閉じていてくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」
「はいはい」
ジェイドは大人しく椅子に腰を下ろすと、目を閉じて、少しだけ唇を開いてやる。それはリップクリームを塗りやすいようにという配慮以外の何物でもなかったのだが。
『……こ、これはひょっとしなくてもすごい状況ではありませんか……?!』
いつも得体の知れない笑みを浮かべている眼鏡の奥の赤い目は閉じられ、腕はだらりと下に投げ出されている。無防備なことこの上ない。頭を固定するために頤に手を掛けると、ディストの胸の鼓動はいっそう早くなった。まるでキスを待っているような、顔。
秀でた額。赤い瞳を覆う瞼。かさかさに乾燥した薄い唇。迂闊にも目が離せない。リップクリームを塗ってやると言い出したのは自分なのに、うっかり目的を取り違えそうになってしまう。
『な、何を私は意識しているんです!落ち着きなさい!』
僅かに震える指でクリームを掬い取り、下唇に塗りつけてやると、クリームの油分でてらりと光った。誘うように。
当のジェイドはといえば、まったく微動だにせず、ディストにされるがままである。仮にも自分達は今、敵同士であるというのに。旧知の間柄であるというだけで彼がこんなに無防備になるだろうか。答えは否。なる筈がない。そうでなくても他人に気を許すような性分ではないのだ。
では彼が今されるがままになっている訳は。そこまで考えた瞬間、ディストは急に恐ろしくなった。何を企んでいるにせよ、ロクなことにならないだろうことは明白。びくびくと目の前の男の様子を窺うが、特に動く素振りは見せなかった。少なくとも今は。
「ディスト?」
グルグルと考え込んでいると、手を止めてしまったディストを不審に思ったのか、ジェイドが目を開けた。逸らす間もなく視線が合ってしまい、ディストは慌てて飛び退いた。
「な、何でもありません……ただ、その……」
相変わらず形のいい唇だと。違う。いや、違わないのだけれどそんなことを言う訳には……。
見ている方が気の毒になるほどうろたえるディストに、ジェイドがさも可笑しそうに笑う。適当な言い訳が見つからず口ごもっていたディストはそれを見て眉を吊り上げた。
「ま、まだ終わっていませんよ!目は閉じていなさいと言ったじゃありませんか!」
「その割には手が止まっていたようですけどねぇ」
「黙らっしゃい!あんまりにも手入れが悪いのであきれていただけです!」
「まあ、そういうことにしておいてあげましょう。ディスト、続きを」
笑ってジェイドは再度目を閉じた。
あの後特に何をされるでもなく、何事もなかったかのように別れたのは奇跡ではないか。数時間が経過した今、ディストはそう思う。同時に思い出されるのはいっそ淫猥なくらいてらてらと光っていたジェイドの唇。しばらくは、他のことには集中できそうもない。
恥ずかしくて見てられない。
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