白百合の赦し





 その夜もやはり、ジェイドは酒を飲んでいた。彼女の幻影にはもう幾度会っただろうか。なぜ今になってこのような幻を見るようになったのか、その理由は依然として謎のままだ。そして今日も同じように生まれ出る気配。突然現れるそれにも、今ではもう慣れっこだ。
「ジェイド」
 彼を呼ぶいつもと同じ声。いつものごとくけだるげに振り向いたジェイドはしかし、いつもとは違う影を見た。
「大きくなったわね、ジェイド」
 ざっくりとした暖かそうなセーターは、あの日命を落とした師が着ていたのと同じもの。彼女自身のレプリカと同じ、けれど柔和に笑う顔。
「ネビリム、先生……」
 信じ、られない。明らかに動揺しているのが自分でもわかる。たとえ幻覚であっても、再びこうして相まみえることはないと思っていたから。
「驚くのも無理はないわね。私はあの日、死んでしまったわけだし」
 そう。彼女は死んだ。自分が暴走させた第七音素の余波を受けて。だから、彼女がここにいる筈はないのだ。
「だからもちろん実体じゃないわ。だけど一つだけ、どうしても伝えたいことがあるの」
 自分も、一つだけ聞きたいことがある。この際幻でも何でもいい、そうジェイドは思った。
 自分がフォミクリー研究を進めたそもそもの原点。
『先生は、私を赦してくれますか?』
 しかし、いざ本人(幻にすぎないが)を目の前にすると、その言葉が出てこない。今ほど否定の言葉を吐かれることへの恐怖を感じたことはない。
「…………」
 結果としてジェイドがなにも言わずにいると、ネビリムが再び口を開いた。赤い唇の動きが妙にスローに感じられる。
「私はあなたを恨んでいないわ。だからそんなに苦しまないで」
 予想さえしなかった師の言葉。
「あなたが何をしたところで、教え子が苦しむのを願う先生がどこにいるっていうの」
 これは都合のいい幻聴だろうか。
「もし私のせいであなたが苦しんでいるとしたら、とんでもないことよ。それは私の本意じゃない」
 ――これは自分が自分に見せている勝手な夢か。妄想か。
 しかし、心配そうなネビリムの顔を見ると、いっそ騙されたっていいとさえ思う。たとえ幻に過ぎなくとも、今目の前にいる師の顔が悲しみに染まるくらいならば、それでも。
「ジェイド、私はあなたを赦します。例えこの手を離れても、あなたは私の教え子だから」
 ジェイドはただ立ち尽くす。その目から流れ出したものにも気付かずに。
「あなた、泣いているの?」
 問われ自ら手を伸ばして初めて、ジェイドは己の頬に伝う涙の存在に気付いた。物心ついて以来流したことのない、ただ知識でしか知らなかった液体。自分にも人並みに涙腺が備わっていたのかと妙に感心する。
「泣きなさい、そのまま。ここで全部洗い流して、前を向いて幸せを見つけるの。そうしてあなたが天寿を全うしたら、あらためて私に話を聞かせて頂戴」
 ネビリムはジェイドを抱きしめようとするかのように手を伸ばし、はっと何かに気付いたように引っ込めた。
「ごめんなさい、今の私はあなたに触れられないの」
 それでも彼女はじっとジェイドの側に立っていた。彼が眠ってしまうまで。
 たとえようのない幸福感と共に、久々の安らかな眠りについたジェイドは気付かない。彼の寝顔を見つめるネビリムは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


百合;大地母神リリスを象徴する花。キリスト教においては、聖母マリアの花でもある。