夜の魔女
ローレライが解放されてから数ヶ月。執務を終えたジェイドは自室で酒を飲んでいた。珍しいことにこのところ酒の力を借りなければ眠れない夜が続いている。否、眠れない訳ではないのだ。職業柄、いかなる状況にあっても睡眠は取れる。
問題なのは、安眠できないこと。やや過度のアルコール摂取によって強制的に深い、夢すら見ないほど深い眠りに就かなければ、今夜も彼女が現れる。
『ジェイド……』
一度きりと思っていた悪夢。あれ以来すっかり鳴りを潜め、もう忘れかけていたというのに。
『ねぇジェイド、私のかわいい教え子』
己の罪の始まり。甘い女の声が脳裏に響く。夢の中で彼女はいつもジェイドの寝室に現れては、愛の言葉らしきものを囁き、惑わそうとしてくるのだ。
『ねぇ、早く迎えに来て頂戴』
いつも同じ言葉を繰り返し、艶っぽく誘う彼女の声を振り払うように、ジェイドは酒を一気に喉へ流し込んだ。
しかし、その安眠も長くは続かなかった。いつものように酒をあおっていると聞こえてきた、声。脳裏に響くような夢の中のそれではなく、至近距離から。
「飲み過ぎは体に毒よ、ジェイド」
声と同時に生まれた気配。反射的に振り向いたジェイドは有り得ないものを見た。もはや夢の中にしか現れ得ない筈の存在。恩師のレプリカが、部屋の窓辺に立っていた。
「会いたかったわ。あなたちっとも会いに来てくれないんだもの」
私はずっと呼んでいるのに、ねぇ。
女が近付いてくる。ジェイドは唇を噛んだ。痛い。うっかり寝入ってしまったのだとばかり思ったのに!これは夢ではないのか!
がた。珍しく音を立ててジェイドは立ち上がった。警戒の色も露にネビリムを睨みつつ、周囲の状況を探る。“彼女”は現実には現れ得ない。ということは何者かが目くらましのために自分に幻影を見せているのではないかと考える方がむしろ自然で。とはいえ、自分と彼女との繋がりを知る者はごく限られているのだが…。しかも、そのうち動機、実行能力の両方を満たしている者は現在収監中だ。
「だからこうやって会いに来たのよ」
じり、じり、後ずさるも、すぐに壁につき当たるのはわかっていた。
ジェイドのすぐ目の前までやってきた彼女はしかし、それ以上何をするでもなく、ただじっと彼を見つめている。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。時計の針が動く音だけが部屋を満たす。
かちかち。
こちこち。
かち。
秒針がいくつ目の音を叩いた時であったか、じっと動かなかったネビリムが赤い唇を不自然なほど吊り上げた。否、それはただ笑んだだけであったのかもしれなかったが、ジェイドにはひどく不自然に、まるで口裂け老婆の笑みのごとく薄気味悪く思われた。それと同時に伸ばされる、手。
ジェイドはその手を振り払った。少なくとも、振り払おうとした。が、手応えはない。
――霞のように、ネビリムの姿は消えていた。
それ以来、恩師のレプリカは時折ジェイドの前に姿を現すようになった。現れるのは決まって夜、それもジェイドが酒を飲んでいる時。だが奇妙なことに、いつも彼女はこちらが触れようとすると姿を消してしまう。攻撃の意思なく触れようとした時も、結果は同じであった。
「幻覚、でしょうか……」
もし幻覚であるとすれば、酔わなければ幻覚は見ない。だが、睡眠をとらぬ訳にはいかない以上、眠ればまたあの悪夢に襲われる。幻覚の方は必ず現れるという訳でもなく、こちらが触れようとすればすぐに消えてしまい、その後は何事もなく朝まで寝ることができる。ある意味ではこちらの方が少しは扱いやすくはあった。まだまし、というレベルではあるけれど。
以上の事象を天秤にかけた結果、ジェイドは酒を飲むことをやめなかった。
夜の魔女;旧約聖書のイザヤ書に登場する、サタンの妻リリスの異称。
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