茉莉花の微笑





 ネビリムの岩。彼女はやはりそこにいた。
「待っていたわ、ジェイド。やっと来てくれたのね」
 不完全とはいえ惑星譜術をその身に受けたのが嘘のように、何事もなかった様子で彼女は岩に腰掛けていた。
「来てくれるって信じていたわ」
 彼女は音も立てずに立ち上がると、ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる。ルークは既にジェイドから少し距離を取り、入り口近くに控えていた。彼が安全圏にいるのを確認してから、ジェイドは静かに口を開く。
「待つ時間は飽きるくらい長かったわ。だけどあなたは来てくれた」
 嬉しいわ、という言葉と共に細い腕がゆっくりと伸びてきても、ジェイドは微動だにしなかった。抵抗もしないまま温かい胸に抱き寄せられる。
 ネビリム先生の私塾に通っていた頃、彼女の被験者にはやたらと教え子たちを抱きしめる癖があった。自分はサフィールやネフリーのように特別それを好みはしなかったが、こうして同じ温度に抱きしめられると、不思議と懐かしさが込み上げてくる。彼女は被験者ではないとわかっていて、それでも。
「ねぇジェイド、私はあなたと一緒に生きていたいの」
 ジェイドの肩口に彼女の髪が当たる。
 ――嗚呼、確かに彼女は生きている。
 互いの服越しに伝わってくる彼女の体温は、自分のそれよりも少しばかり高かった。ネビリム先生と同じ姿形をしていながら幼子のようにしがみついてくるのにはひどく違和感を覚えたが、冷静に考えてみれば別に不思議なことでも何でもない。彼女は生まれてからの20余年のうち大半を封印の中で過ごしたのだ。その心はむしろ幼子に近いという方が妥当だろう。

 また私は、この上もなく残酷な言葉を幼子に言うつもりなのか。だがもはや揺らぐことは許されない。

 ジェイドは静かに目を閉じて、ひとつ深い呼吸をした。なるたけ平静を装い、まるで愛の言葉を囁くように、少し屈んで彼女の耳元に口を寄せる。
「お別れを、言いに来ました」
 びくりと震えて顔を上げた彼女と目が合った。視線が絡み合う。
「私は、あなたとは生きられません」
 彼女の目が驚いたように見開かれ、やがてうつむいた彼女の頬に長い睫が影を落とした。
「もう、決めてしまったの?」
「ええ、私はあなたを生み出した責任を取らねばなりません。ですからせめて……」
 一瞬ジェイドは言いよどんだ。決心は固いが、決定的な言葉を吐くにはやはり躊躇いがある。罪悪感など、抱く資格はないというのに。
 背後で見守るルークの気配を感じながら、一拍おいて言葉を続けた。
「私の初めの罪の証。せめてあなたの死は、私が受け止めましょう」

 

 それが、最後の宣告だった。ジェイドの背にすがりついていた腕がぶるぶると震えながら離れ、彼女は後ずさって彼から距離を取った。最悪の可能性を考えながらジェイドはいつでも槍を取り出せるようイメージを固める。しかし彼女はいつまで経っても攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。
「そう……私が生きていくことは許されないのね」
 彼女はちらりとジェイドの背後、入り口に佇むルークの方へと目をやった。
「……本当はわかってたわ。あなたが私を選ばないのは」
 不意にジェイドに近付いて二言三言囁きかけると、彼女は背を向けて歩き出す。向かう先には一部だけが残っている譜陣。
「思えば生まれた私があなたの求めた人物ではなかった時から、既に私の道はあなたのそれとは分かたれていたのね」
 譜陣まで到達すると、彼女は足を止めた。
「この譜陣を消せば、私も消えるわ」
 けれど振り向くことはせず、彼女が今どんな表情をしているか、ジェイドには窺い知れない。
「それでも私が生きていた意味はあったの」
 彼女は何をしようとしているのか。タイムストップをかけられた訳でもないのに、ジェイドはその場から動けない。
「あなたを今も支配している被験者の亡霊は、私が一緒に連れていく」
 そこで彼女は振り返った。その頬を、一筋だけ涙が流れ落ちていく。
「さようなら、可愛いジェイド。これからは、前を向いて生きて頂戴」
 言い切るが早いか彼女は詠唱を始め、気付いたジェイドが止める間もなく発動した譜術が、譜陣の残りを跡形もなく消し去った。ほぼ時を同じくしてかき消える最期の瞬間、彼女は涙の残る顔に笑みを浮かべていた。
 その笑みは、いつか薄気味悪く感じたのが嘘のように、はるかな記憶の中にある師の微笑みときれいに重なった。


茉莉花;「愛」と「想い出」、そして「別離」を表す花。ジャスミン。