招かれざる客
私がファントムハイヴ伯爵に初めてお会いしたのは、迷信深い叔母が主催した交霊会の席でのことでした。その日はひどい嵐で、霊に大した興味もないのに付き合いで参加することになった私は正直気が重かったのですが、薄暗く照明を落とした部屋の中でもひときわ目を引く彼の整った容貌は非常に魅力的で、窓の外でしつこく鳴り響く雷鳴も気にならなくなったほどでした。
「さあ、隣の方と手を繋いでください。儀式が終了するまで決して手を離さないように」
私たちが円陣を組んだのをやや大袈裟に見回して確認した霊媒師が祈りの詩句を唱え始めてからどれくらい経った時だったでしょうか。突然部屋中に閃光が走り、驚いた私は隣の紳士と繋いでいた手を離し、その場に倒れこんでしまいました。
どうやら私は少しの間気を失っていたらしく、目を開けると同時に視界に入ってきたのは足元にあった筈の赤い絨毯の繊維でした。隣には私と手を繋いでいた初老の紳士が倒れこんでいて、彼はいまだ目を覚ましていない様子です。一体何があったのか、こわごわと視線を巡らせると、室内でただ一人立っている人の姿が見えました。ファントムハイヴ伯爵でした。
「じゃあ、お前は手違いで召喚されたという訳かい?」
立っているのはファントムハイヴ伯爵ただ一人の筈なのに、彼は中空に向かって穏やかな口調で何事か語りかけています。相手の姿は見えないまでも、何となく嫌な予感がした私は起き上がらずにそのまま耳をそばだてていることにしました。
「契約者を探している?それは私でもいいのかな」
『驚いてはいないのか
』
「まあ、私もこうして実際に目にするまではまるで信じていなかったしね。かといって私の正面に立っていたご婦人のように明らかに余所見をしていられる立場ではなかったから一応正面は向いていたけれど」
まさか、彼は霊と会話しているとでもいうのでしょうか。あまりにも非現実的な光景に、私は床に頬をくっつけたままの状態でいるにもかかわらずクラリとめまいを覚えました。
「お前のような存在が悪の貴族に仕えるなんて、面白い趣向だとは思わないかい?」
悪の貴族。その噂については社交界に出る前くらいの年の頃に聞いたことがありました。女王陛下に代わって国の憂いを晴らす闇の支配者。しかしそれはあくまで低俗な噂話にすぎないと、その辺りに倒れているだろう霊媒師が説く霊のように子供じみた迷信であると後に知った筈なのに、霊とは違って実在していたというのでしょうか。しかも彼の口ぶりではまるで、まるで。
『畏怖の念も抱かぬとは……あきれたものだな
』
「お前を恐れているようでは悪の貴族なんて名乗れないよ」
まるで、彼自身が「悪の貴族」そのものであるかのような。
きっとこれは悪い夢なのだと私は思いました。胡散臭い交霊会などに参加したから、あの誠実そうなファントムハイヴ伯爵が女王陛下の黒き番犬であるなどという荒唐無稽な夢を見るのだと。早く目覚めなくては。こんな夢を見ているだなんて、ファントムハイヴ伯爵に対して失礼です。
しかし、次に続いた彼の言葉を聞いて私は気絶しているふりも忘れて悲鳴を上げてしまいそうになりました。
「女王の暗部にかしずく悪魔、か。女王にもぜひ聞かせて差し上げたいよ」
ファントムハイヴ伯爵の声音はどこまでも穏やかで、その後にも中空へ向かって(そこに何かがいるだなんて、考えたくもありませんでした)話しかけ続けています。しかし私にとってはそれどころではありませんでした。彼は「悪魔」と言ったのです。彼は今、悪魔と契約しようとしているのです。
私は夜が明けたらすぐに教会へ行こうと思いました。そして今見ているこの悪い夢について懺悔するのです。三十二年間堅実に、現実的に生きてきた私が悪魔の出てくる夢を見るだなんて。しかも、初対面の方を悪魔の手先に仕立て上げるだなんて、無意識のなせる業とはいえなんと不謹慎な。
「じゃあ契約成立だ。契約書は?」
『任意の場所に埋め込むことができる。目につきやすい場所ほど互いの拘束力は強まるし、他の人間に露見する可能性も増すからよくよく考えることだな
』
「わかった。それじゃあ……」
いっそ耳をふさぎたい気持ちでした。たとえ夢でも人と悪魔とが契約する現場になど立ち会いたくありません。しかし気絶しているふりをしている以上、動くことはできませんでした。夢なら醒めてしまえばおしまいですが、もしも、もしもこれが夢でなかったとしたら?ファントムハイヴ伯爵が話している相手の姿は私の倒れこんでいる場所からは確認できませんが、先ほどからずっと、背筋に鳥肌が立つような寒気を感じているのです。
「さあ、頼んだよ」
声と同時に今まで感じていた寒気とは比べ物にもならないほどの怖気が部屋中を満たし、私は今夜ここへ私を招いた伯母を心底恨みました。こんな寒気、夢であろう筈がありません。どんなに現実離れしていようとも、どれほど恐ろしくとも、これはまさに現実なのでした。いんちき霊媒師の手になる胡散臭い交霊会は、本物の悪魔を呼びよせてしまったのです。そしてファントムハイヴ伯爵は今この瞬間にも、神への信仰を拒もうと……ああ、なんということでしょう。
その瞬間、私は意識が遠のいていくのを感じ、神のご慈悲に心から感謝しました。次に目が覚める頃には他の人たちと同様、突然の雷でずっと意識を失っていたのだという風に思えるかもしれません。そして何事もなかったかのように屋敷へ戻って、今夜のことは二度と思いだすまい。そうすれば悪魔の影が私のもとへやってくることはないでしょうから。
ああ神よ、聖霊よ、私をどうかお守りください。
タナカさんとの運命の出会い。
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