Lの葬送





「……終わったのか?」
 彼女が消えてから暫しその場に立ち尽くしていたジェイドに、ルークが躊躇いがちに声をかけた。その声で我に返ったジェイドは、こわばった顔のまま振り返る。
「ええ、これで、すべて終わりです」
 そして作り笑いを浮かべた。平素から得意とするそれとは異なり、その顔は僅かにひきつっている。そう自覚しながらも、笑わずにはいられなかった。
「彼女も哀れなものですね。あんな死に方をして、涙を流してくれる人すらいないとは」
 ルークは何も言わない。とくに言葉の続きを促すでもなく、ただ静かに耳を傾けている。ジェイドはあふれ出てくる言葉を止めようともせず(仮に止めようとしたところでおそらく止められなかっただろうが)言葉を続けた。
「遺体はおろか、墓に刻む名すらありませんし」
 何よりも滑稽なのは、彼女の死を目の当たりにしても涙ひとつ零すことなく乾いている己の目。自分の涙腺機能に異常があるわけではないのはわかっている。あの時は夢だと思っていたけれど、被験者を騙った彼女に慰められた時、自分は泣くことができたのだ。だというのに今この瞬間、彼女のために泣いてやることもできぬとはなんという身勝手。
 ――ジェイドの背を何か寒気のようなものが走った。嫌な予感。と同時に空間を割った声。
「……見つ……ま…たよ、ジェイド!」
 乱れた呼吸を挟みながら絞り出された声に驚いて声のした方、すなわち岩場の入り口に視線をやれば、掠れた声音と同じくらいボロボロの姿で、立っているのもやっとといった様子のディストが佇んでいた。
「何が、あったんです?この場所は……」
 この場所から想起される人物は一人。彼女の存在以外、もとよりここには何もない。だが、ジェイドは白々しく平静を装ってみせる。
「任務ですよ。あなたこそどうしたんです。そんなに刑期を延ばしたいですか?」
「あなたがおかしくなった直後に警備が強化されるなんて、私に知れてはまずいことだと言っているようなものです。あなたが権力を行使してまで私に隠すことなんて1つしかないじゃありませんか!」
 感情が昂ぶるあまり疲労も忘れているのだろう、ディストはいやに饒舌だった。こうなることがわかっていたからわざわざ手続きを踏んで監視を強化させておいたのに。なぜ彼はここに辿り着けたのだろう。
「答えなさい、ジェイド。ここで何をしていたんです。まさか……」
「彼女はもうこの世の人ではありませんよ」
 はあ、と一つ溜息をつく。来てしまったものは今更どうすることもできない。とはいえ、憂鬱なことに変わりはなかった。
「音譜術士連続殺傷事件の犯人の生存の疑いあり。その生存確認及び拿捕を命じられた私はルークに協力を仰いでここまで来ました。そして彼女は私がその身柄を確保する前に自ら命を断った。それを見届けて帰ろうとしたところにあなたがやって来たんです」
 事実とは多少異なるが全くの嘘でもない、表向きの報告として持ち帰ろうとしていた内容を淡々と語るジェイドとは対照的に、ディストの頬には見る間に赤みが差す。
「一戦交える覚悟もしてはいたんですが……何はともあれ、これで安心して眠れますね」
 これは嘘。きっとしばらくは眠れまい。こんな時、平然とした顔で嘘を言える自分に感謝する。もう作り笑顔も完璧。一点の歪みもない筈だ。
 怒りが頂点に達したのか、ディストは声を張り上げた。
「ッよく平然としていられますね!ネビリム先生のレプリカ情報が見つからなかった以上、彼女の存在が最後の希望だったんですよ!」
「別にあなただって泣いてはいないでしょう」
「悲しすぎて涙も出ませんよ!」
「鼻が垂れるほど水分があり余っているのに、ですか?」
「垂れていませんよ!全く、心配した私がばかみたいじゃありませんか!」
「おや、あなたに心配されるような覚えはないんですがねぇ」
「キィィイィ!以前から思っていましたが、あなた私に対して失礼にも程があるんじゃないですか?!」
 空気が読めないのは相変わらずらしく、ディストはなおもキーキーと騒ぎ続けている。苦労したんですよ!だの、おかげでいつか姿をくらます時のためにとっておいた脱獄経路がもう使えなくなったじゃありませんか!だの。もっとも、話の論点をずらすことには成功したので後は聞き流しておけばいいことだけれども。
 ――ある一点を除いては。
 警備を強化していたにもかかわらず囚人の脱獄を許したということは、警備体制そのものに穴があった可能性が高い。しかもディストの言い分を信用するなら、彼は以前から脱獄経路を少なくとも1つ確保していたことになる。帰ったらしかと尋問し、どうやって脱獄したのか問い詰めなければ。
「ジェイド、聞いているんですか?!」
 ジェイドが話を全く聞いていないことにやっと気付いたらしく、ディストはジェイドを睨み付けた。
「あなたは昔からずっとそうです。都合が悪くなったらすぐ聞こえないふりをして!もう知りません、帰りますよ!」
 わめくだけわめいたディストは憤然と岩場を出てゆき、すぐに派手なくしゃみの音が聞こえた。興奮状態だったところでいきなり外に出たため、冷気が余計身に凍みたのだろう。
「ジェイド、帰ろう」
 黙って2人のやりとりを見つめていたルークが促す。穏やかな彼の表情を見ると、先程ジェイドにしか聞こえないように耳に注がれた彼女の囁きが蘇った。

『いい友達が、できたのね』

 外からはまたくしゃみが聞こえてくる。彼女はあの時ルークを見ていたのだったろうか。それとも彼女は、空飛ぶ椅子もなく、肉体労働ともまるで縁のないやせっぽちの体で険しい雪山を上って来るディストの存在に気付いていたのか。
 ――否、いずれにしても答えは。
「……はい」
 踵を返したジェイドは一度だけ振り返り、名前すら与えられることなく逝った彼女に黙祷を捧げた。
 それ以降、彼が足を止めることはなかった。


L;女悪魔リリス(Lilith)及びその象徴たる百合(Lily)の頭文字。

リリス;元はギリシャの女神で、イヴより先にアダムの妻であったとされる。しかし疎まれて魔界へ堕ちた。Lilith。
百合;「悲しみ」の象徴。エドガー・アラン・ポーによれば、無名の人の墓に咲く「涙の花」でもある。Lily。