Fragile




 薄暗い店内に立つ真紅の影が、紅茶の入ったビーカーを両手に持って戻ってきた店の主にしなだれかかる。
「ね、アタシを抱いて」
 長い前髪に隠れて見えない葬儀屋の目に訴えかけるようにグレルは笑いながら軽い調子で誘いの文句を口にし、徒に媚態を含んだ赤い舌をちろりと出した。一方の葬儀屋の表情は長い前髪に隠されているため傍目には窺い知れないが、その口角は何かに興味を惹かれた子供のように上げられている。
「さあ、どうしようかなぁ」
「この前会った時にも言ったでしょ?アタシ、アナタに抱かれてみたいのよ」
「うーん、だけど小生は君から見れば先日ご指摘の通り冴えないオジサンだよ?」
 半ばふざけたような口ぶりで相手の出方を窺いつつ遊んでいた葬儀屋は、ふと、グレルの腕がカタカタとかすかに震えていることに気がついた。
「おや」
 前触れもなく抱き寄せれば、葬儀屋の腕の中に倒れこんだ体はおとなしくされるがままに抱かれつつも僅かに強張る。
「前会った時とは様子が違うねぇ」
「そう?今日は爪までキレイに磨いてきたからそのせいかしら」
「うーん、本当かな?」
 からかうような言葉とともに首を傾げた葬儀屋は、自分の肩口に甘えるように顔をうずめるグレルのこめかみから指を差し入れ、どこまでも穏やかな手つきでその表情を隠している前髪を払った。その先にあったのは媚態につり上がった口角とは裏腹に今この瞬間に泣きだしても全く不思議ではないような、さながら殉教する覚悟を決めようとしているかのごとく揺れる金緑の瞳。
「……小生には、君が嘘をついているように見えるんだけどねぇ」
 そのまま子供をあやすようにグレルの頭を撫でてやる。
「………………」
「………………」
 しばしの沈黙が薄暗い室内に満ちた後に、グレルがぽつりと呟く。
「アンタが悪いのヨ」
「ん?」
「どれだけ仕事ができたんだか知らないケド、さっさと引退した末にこんな所で人間の真似事だなんて、ふざけてるにも程があるわ」
「うーん、小生は今の生活も結構楽しんでいるけどねぇ、それがどうかしたのかい?」
 葬儀屋の胸にグレルの爪が立てられる。布越しのそれに痛みは伴わないが、グレルの体が更に強張る感触は抱き寄せる腕にじかに伝わってきた。
「華々しい功績だけ残してさっさと引っ込むなんて罪作りなこと甚だしいワよ。いかにも崇拝してくれと言わんばかりじゃない」
「崇拝?」
「……ウィルったらいつも二言目には“あの御方”。どこの誰だかもよく知らない男の話を延々聞かされるこっちの気持ちも少しは考えろってのよ」
 最初は途切れがちな呟きだったのが、だんだん声に力がこもってくる。酔っている訳でもなさそうなのに、溢れ出す言葉は葬儀屋の肩に降らされ、とどまるところを知らなかった。
「忘れたいかい?」
「え?」
 延々と続くかと思われた愚痴が止まり、グレルが惑い顔で葬儀屋の肩口から顔を上げる。その襟元を飾るリボンの端を葬儀屋はゆっくりと引っ張りながら囁きをグレルの耳に流し込む。
「忘れたいなら、抱いてあげるよ」
 急な言葉にグレルははっきりとうろたえるが、真意を探ろうにも長い前髪が障壁となって葬儀屋の表情は伺い知れない。
「………………」
 沈黙。しかし葬儀屋は解いたリボンを指先でくるくると弄ぶだけで、それ以上グレルの衣服を緩めようとはしなかった。
「本当に忘れたいのなら、だけどねぇ。本当のところはどうなのかな?」
「………………」
 答えはない。だが、ぎゅっと委縮する体がどんな言葉よりも雄弁にグレルの真意を語っていた。
「忘れたくは、ないみたいだねぇ」
 面白がっているのか、はたまた呆れているのか。どちらともつかぬ声音で囁いた葬儀屋は、一旦は解いたリボンをまた元の通りに結び直しながらゆったりと語る。
「小生がしてきたことはもう既に過去のものだよ。今の生活を気に入ってもいるしねぇ」
 さ、できた。形よく結ばれたリボンと襟を正し、葬儀屋はグレルを店の扉へと促した。
「今日のところはお帰りよ。本当にすべて忘れたくなったらまたおいで」
 グレルの目の前で開けられた扉の先には、神経質なまでにきっちりと髪を撫でつけた背の高い同僚の姿。一体いつから立っていたのだろうか。
「こんな所にいたんですか、グレル・サトクリフ。まだ勤務時間中ですよ」
「それは……」
 ウィリアムの視線がグレルの目を真っ直ぐに刺し貫く。だが、グレルもまたその目を真正面から見返した。
「そんなの、アンタが面倒な雑用ばっかりアタシに押し付けてくるからに決まってるデショ!つまりはアンタのせいよ!」
「雑用も碌にこなせないのに本業に戻れると思っているんですか?さっさと仕事に戻りなさい」
「うっさいわね!戻ればいいんでしょ戻れば!」
 憤然と歩きだしたグレルを尻目にウィリアムは眉間に皺を寄せたまま葬儀屋に一礼し、几帳面な足取りでグレルの後を追った。後に残された葬儀屋は扉に凭れかかったままヒッヒッ、と肩を震わせて笑う。
「最近は面白い子たちがよく来るねぇ。実に飽きないよ」
 そして葬儀屋も機嫌よく店の奥へと引っ込み、その場には誰もいなくなったのだった。


大人な葬儀屋を書きたかった作。