ピーターパンは黄金郷の夢を見るか
薄暗い洞窟の中に設えられた巨大な計器。レプリカ大地生成の試算を行っているそれを、閣下は真剣な面持ちで見つめている。
――レプリカ大地の生成は、可能。
無機質な音とともに譜業が導き出した答えは以前と同じく、ホド諸島のレプリカが現時点の条件で生成可能であるというものだった。既に生成が開始されているそれは一月を待たずして完成するだろう。預言の影響から脱する最初の大地が。
「……エルドラント」
ふと閣下が呟いた。ややもすると聞き逃すかもしれなかったその言葉の意味は「黄金郷」。古代イスパニア語で最後の聖地と呼ばれる、いまだ世界のどこにも存在しない場所。
「再生する栄光の大地にこれ以上ふさわしい名もあるまい」
そう言って振り向いた閣下の背後に、私はこれまで一度も目にしたことがない筈の大地――2000年の永きに渡り始祖ユリアの眠りを守り続けていた栄えあるホドの大地の姿を見たような気がした。
閣下はまだ1人で何か作業を続けている。これだけ何度も確認したのだ。計算結果が覆ることはまずあるまいが、条件には多少の誤差が生じうる。誤差も含めて計算し、計画をより磐石なものにしたいとお考えなのだろう。閣下はこの計画のためにこれまで生きてきたといっても過言ではないのだ。人が自らの意思で未来を選び取れる新世界を作り出す。その目的がなければ、今閣下はここにはおられまい。
否、その命さえもうこの世界に留まってはいないだろう。
彼がレプリカルークと同じ罪を背負っていることを知る者は少ない。そして、閣下が今でも時折悪夢に魘されていることを知っているのは――おそらく私1人のみ。
戦火に故郷を蹂躙され、あまつさえその大地を無理やり崩落させられたその瞬間に幼い彼が突き落とされた絶望はいかばかりであったろう。そればかりか、すべては預言に仕組まれていたというのだ。彼がすべてを知ったその瞬間、世界は彼の前で全く意味を失い、ただ預言悲喜劇の舞台装置に過ぎぬだけのものになったと以前閣下は仰っていた。
彼がいまだに見ている悪夢は彼の犯した、更にレプリカルークの手をも染めさせた罪を忘れぬためのものなのだろうか。だとすればなんと苦しい戒めだろう!
計画が成功すれば被験者の世界は新しい世界の母体となって消える。私も、閣下も。
――これは口が裂けても言えないことだが、私自身は預言さえ廃することができれば、新世界を生み出す必要は必ずしもないと思っている。私はただ真実を、私が生きてきた足跡が預言に操られて動かされたものではないことを示したいだけ。亡くした弟を悼む気持ちも、今の私を動かす情もローレライの見た夢などではない。ましてやいずれ生まれくるジゼルレプリカのものでもない。ただ1人、私のものだ。
大方の者が思っているのとは裏腹に、私はいまだ閣下に想いを伝えていない。聡明な閣下のことだから言うまでもなく既にお気づきのことだろうとは思うのだが、私の方からはっきりと口に出してお伝えしたことはただの一度もないのだ。世界が預言のくびきを離れた時には、預言が影響する余地のない私自身の言葉として、閣下にすべてを打ち明けたい。それが、今の私が望むすべてだった。
だが閣下は違う。彼にとって預言の破壊は、その舞台装置たる被験者世界の終焉なくしてなしえない。そうでなければどうして彼自身の、そして最愛の妹の命さえも生かせぬ未来を選ぼうか。
彼の時間はきっとあの時、世界が意味を失った瞬間に止まってしまったのだ。
普段は歴戦の老将のように狡猾な閣下。その彼が食い入るように試算結果を見つめる瞳は世間の風評とは裏腹、少年のように澄んでいる。彼の望む新世界が誕生し、その安定を見届けて最後に残った被験者、つまりご自分の存在を世界から抹消するまでのわずかな夜には、彼は悪夢でなく楽園の夢を見ることができるだろうか。
エルドラド:「黄金の人」を意味し、アンデス地方にあるとされた伝説の楽園。El Dorado。
ホド:「栄光」を意味する第8のセフィラ。Hod。
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