グラスエッジ




 朝。目を覚ましたグレルはなかばボーっとした思考のままごそごそと枕元のサイドボードに手を伸ばす。
「?」
 ごそごそ。しばし手をさまよわせるも、目的のものが見当たらない。
「?……ドコよぉ?」
 もそりと身を起こしてまじまじとサイドボードの上を見渡す。裸眼ではぼんやりとぼやけてよく見えないが、目的のものはどうやらそこにはないようだった。
「アタシのメガネ〜」
 どこにいってしまったのやら、探そうにも近眼なのでメガネがないことにはどうしようもない。まだはっきりしない頭を右左と揺らしつつ、グレルは昨夜の自分の行動を思い出すことにした。昨夜は……そうだ、昨夜はウィリアムの部屋で始末書の書き方がどうとかでガミガミお説教を食らった筈だ。言い返してぶたれたのに腹が立って情けなくて泣きながら部屋を飛び出した記憶がある。その時に飛んだまま置き忘れてしまったのかもしれない。ウィリアムは確か今日は勤務日。ぼやける視界に足元をふらつかせながら、グレルは協会の管理課へと向かった。



「ウィル〜!」
 黒っぽい背の高い人影。裸眼ではまったく顔の判別はつかないものの、おそらく間違いないだろうと踏んで抱きつこうとしたグレルは、固い板状のものに顔面をしたたかに打ちつけるハメになった。伸ばした手がむなしく宙を掻く。この手酷い対応。間違いない。ぶつかったのはおそらくウィリアムの分厚い書類ファイルだろう。
「いきなり何のつもりですかグレル・サトクリフ。謹慎中の貴方は暇を持て余しているのかもしれませんが私は勤務中です。しかもそんなつい今しがた起きたような情けない顔をして。始末書の書き直しは終わったんですか?」
 ウィリアムの指摘は悔しいけれど正しい。何もかもがぼやけて見える頼りない目では鏡を覗き込んでもほとんど無意味。なにより、夢中で飛び出してきたグレルに身支度をしているような余裕はまったくなかったから、顔はすっぴん、髪もボサボサ、服も適当……さぞかしひどい姿をさらしているだろう事に思い至り、グレルはカッと頬に朱を上らせた。
「だ、だって仕方ないじゃない!朝起きたらアタシのメガネがなかったんだから!それもこれも昨日の夜アンタがアタシを部屋に呼びつけて放してくれなかったせいよ!この責任、どう取って……」
 ボグシャ。
「痛ァァ!!」
 頑丈なファイルで頭を殴られ、グレルは頭を抱えてその場にしゃがみ込む。その頭上に、かなり怒っているらしいウィリアムの冷たい声が降ってきた。
「誤解を招くような発言はやめろと何度言えば分かるんです?とにかく、ここで騒ぎたてられては課の業務に支障をきたします」
 ウィリアムは、側の壁に掛けてあった鍵を1つ取り、すっかり驚いた様子で固まっていた同僚に談話室を使用する旨を伝えると、まだ立ち上がれないでいたグレルの腕を乱暴に掴み、その体を引き上げた。
「5分だけ話を聞いてやりましょう。さっさと来なさい」



「……それでは貴方は、自分の部屋さえロクに探さずここへ飛び込んできたと?」
「しょうがないデショ。わざわざ他の場所において寝ただなんて思えないし、探そうにも何にも見えやしないんだもの」
 談話室にしつらえられた革張りのソファ。グレルと向き合う形で座ったウィリアムは、見えずともそれとわかるほど大仰に溜息をつき、持っていたファイルを机に置いた。
 今のグレルにはぼんやりとした黒っぽい人影にしか見えないウィリアム。その体が前触れもなくぬっと近付き、両耳に何かかけられた感触と同時、一気に視界がクリアになった。初めに目に映ったのはいかにも不本意そうなウィリアムの顔。その目元に、トレードマークの特徴的なメガネはない。
「……え、何、ちょ、コレ……」
「そんな状態でウロつかれても迷惑ですから、今日一日だけそれを貸してやります。もう一度自分の部屋を探し直して、自分のが見つかったら速やかに返しに来なさい」
「でも、それじゃウィル、アンタはどうすんのよ……?」
「私は部屋にスペアがあります。見て探さないと保管場所がわからないほど間抜けでもありませんし。貴方にこれ以上仕事の邪魔をされ続けるよりは、スペアを取りに戻る方がよほど早い」
 ――さあ、わかったならさっさと戻りなさい。
 苛立たしげにグレルを談話室の外へ追い立てると、ウィリアムは廊下の向こうへ歩き出す。メガネなしでは視界が悪いだろうに、その足取りは意外なほどしっかりといつも通りで、グレルは少しならず腹が立った。
『なによ、いつでもなんでもサラッとできますーってすましかえっちゃって』
 しかし、ウィリアムの姿が遠のくスピードが常のそれより少しゆっくりであることに気がつくと、グレルは口の端をわずかにほころばせる。どうやら、視界の悪さが全く問題にならないわけでもないらしい。
『……どっちかっていうと、見栄っ張りなだけかも?』
 自らのまなじりに手をやれば、そこには自分のメガネのフレームとは違う角張った感触。今日はこれから部屋に戻って、もし自分のメガネがすぐに見つかっても夜まではこのメガネをかけたままでいよう。夜になってウィリアムの部屋へ返しに行った時にはまたグチグチ言われるかもしれないけれど、少しだけお揃い気分を味わってもバチは当たらないだろう。
『それに、素顔のウィルなんてレアなものも拝めちゃったし、まぁ、いっか』
 ハッキリとクリアな視界。無愛想で無味乾燥な管理課の様子も今だけはいつもよりもちょっとだけ新鮮に見える。2度も殴られた頭はまだ少しばかり痛むけれども、グレルは機嫌よく管理課の建物を後にしたのだった。



死神全員近眼設定には大変萌えました。