薔薇の毒




 アレイスト・チェンバー。富裕な貴族の家に生まれ育ったこの12歳の少年の生活に、足りないものは何一つ存在しなかった。時折訪れる親戚筋の女たちが褒めそやすその容貌は女中たちの心の花であったし、天運に恵まれた知性は惜しみなく与えられる教育のことごとくを砂地が水を吸うようにその身の血とし肉としていった。彼を取り巻く家庭の状況も申し分のないもので、彼の生活に欠けているものは何一つなく、その未来図もまた同様にきらびやかな光輝に包まれているに違いない。少なくとも彼を直接知る者は皆そう考えていた。
 しかし当の本人はというと、伯母の町屋敷で開かれた夜会の場で一通りの挨拶回りを済ませた後は、とても初めてとは思えない手際のよさで見目よい新顔をからかおうとする貴婦人達の誘いをさらりとかわし、人気のない庭園へ出て一人無聊をかこっているのであった。
(まあ、こんなものなんだろうな)
 まっさらな白い夜会服の裾を揺らし、少しばかりほてった幼い頬を撫でる夜風の涼しさに目を細めた少年は、辺りに人がいないのを横目で確認してから、瀟洒な微笑みの仮面を解いた。
 実のところ、彼は退屈でたまらなかったのだ。どんな衣装が美しい息子に映えるだろうかと手ずからあれこれと布をあてがっていた母はおろか、既に不安と緊張に満ちた社交界デビューをつつがなく果たし、今度は素直に夜会そのものを楽しめると期待を語った姉たちほどにも、彼は初めての夜会に際して浮き足立ってはいなかった。必要な作法はすべて家庭教師から教わった通りにマスターしていたし、夜会の様子については姉たちがそれぞれ初めての夜会に参加して以降、若干彼が辟易気味になるほどたっぷりと聞かされていた。そして実際に参加した夜会の様子はといえばこれまで聞かされた話の内容から彼が想定していたイメージとさほど異なることもなく。美しく設えられたジオラマの中で各々の役割を演じる人々の笑いさざめきは確かにチェスゲームのように洗練されてはいたが、端正な美しさという点においてはむしろチェスボードの幾何学模様や数学の方がはるかに優れている。ある程度想像はついていたことではあったが、これならば邸で数学書を紐解いている方がよほど退屈しなかっただろう。あるいはきわめて幾何学的に計算され整えられたこの庭園の植物を眺めて、これらの植物が一体どのような計算に基づいて配置されているのかを分析し、庭師の腕を検分してみるのも貴婦人方の退屈しのぎに付き合うよりはよほど有意義な過ごし方かもしれない。
 退屈していることを隠しもしない顔で夜に映える白薔薇の花を数えていた少年の視界の端に、黒っぽい人影のようなものがふと映りこんだ。57個目の花を数えたと同時に一旦は通り過ぎようとした視線がその人影に留まる。今夜は満月だが灰色の薄い雲がその半分以上を覆ってしまっており、暗がりのせいでそれがどこの誰なのかは皆目見当もつかなかったが、端正なシルエットから察するに、それは背の高い青年紳士であるようだった。今夜挨拶した中の誰かだろうか。面倒な相手でなければいいのだが……。少年が人影へ向かって目を凝らしたその時、ちょうど月を隠していた雲が流れ、青年の姿がくっきりと照らし出された。夜会の喧騒を離れて息抜きにでも来たのだろうか、その輪郭は赤薔薇の茂みに伸ばされたその指先に至るまで彫像のように整っていて、さながら名工が丹精込めた彫像のようである。素直に美しいと思った。その美しい姿の下にどれほど嫌味な本性が隠れているかはわからないまでも、その姿の美しさだけは否定しようがなかった。
「私の顔に何か付いているかな?それとも、薔薇の香りに酔ってしまった?」
 声をかけられて初めて、自分がじっと青年を凝視してしまっていたことに気がついた。らしくもない失態だ。相対しているのが伯母のように意地の悪い性格の人間であればさぞ楽しそうなからかいの言葉がすぐさま飛んできたことだろうが、彼がそういう面倒な人種でない保証はどこにもない。青年に歩み寄って如才なく非礼を詫びながら、目の前の青年紳士はいったいどこの誰だっただろうかと少年は急いで自らの記憶をたどる。
 ――ファントムハイヴ伯爵。その名はわりあいすぐに思い出すことができた。先ほどの挨拶回りの際に直接言葉を交わしたわけではなかったが、彼より格上の家の紳士たちが数人、彼に対して少々不自然にも映るほど丁寧な応対をしていたのがなんとなく印象に残っていたのだ。思い出してみれば記憶は繋がっているもので、姉たちがいつかその美貌を絶賛していたような覚えもあった。確かに美しい顔立ちをしている。年は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。すっかり大人になりきったような、まだどこか子供っぽさを残しているような。この青年に笑みかけられて悪く思う者などいないだろう。彼はそんな雰囲気の持ち主だった。
「ここの庭師は腕がいいね。まだ咲いていない蕾まできちんと選り分けをして鋏を入れている。きっと細やかな神経の持ち主なんだろう」
 伯母が自邸の庭園管理に情熱を傾けているのは事実だ。その世界では著名な庭師を他家から引き抜いてきたとも聞いている。だがこの場合、彼は本気で庭師の技術に関心しているのか、それともここが少年の伯母の持ち物であると知っていて、ただ機嫌をとろうとしているのか。ファントムハイヴ伯爵の穏やかな瞳に悪意やへつらいといったようなものは読み取れないが……。少年は適当に相槌を打ちながら観察を続ける。このいかにも温和で人好きのしそうな青年にここまで警戒する必要があるのだろうか、さすがに失礼なのではないかと理性が疑念を訴えかけてはくるものの、それよりも青年の瞳の中に何か自分の知らないものがあるという確信めいた感情の方が勝り、少年は思考を停止してしまわないのだった。
「……少し緊張しているみたいだね。夜会は初めてかな?」
「はい。姉たちから話は聞いていたんですが、少し人酔いしてしまったみたいで……」
「そうだね、見ると聞くとでは大違いだ。……といっても、いずれ慣れると断言できるものでもないけれど」
 年少者のうぶさを微笑ましく思っているのだろう、ふと相好を崩す様子は今まで見てきたわかりやすい大人たちとごく似通っていて、不自然な点はどこにもない。けれど、そう言ったわかりやすい大人の目とは違って、彼の目の奥に何があるのかは薄い膜で隠されているかのように全く読み取れない。これまでそんなことは一度もなかったので、少年はこの変わった大人を非常に興味深いと感じていた。
「風が冷たくなってきたね。そろそろ戻らないとまた友人にぼやかれそうだから私はそろそろ戻ることにするよ。君も冷えてしまわないうちには戻るといい」
 観察を続けるまなざしに気づいているのかいないのかは不明ながら、青年は声をかけてきた時同様の唐突さで軽く挨拶をすると、踵を返してそのまま歩き去っていく。振り返る様子もない。青年の姿が生垣の向こうに消えた後には、少年一人が残された。
(変な人。いや、別に変なことしたわけでも言ったわけでもないけど……でもやっぱり、変な人だ)
 美しい人だった。その美しさが否が応にもその評価を押し上げるであろうことを差し引いたところで、立ち居振る舞いも英国紳士の見本のようであるといって差し支えなかった。だが、その瞳の奥には何か――たとえるならば毒、のような何かが見え隠れしてはいなかっただろうか。それに彼に接していた大人たちの自然なような不自然なような態度。理屈で考える限りどの疑問にも答えは出ない。けれど確かに感じる違和感。
(僕は、疲れてるんだろうか)
 ぼんやりと何の気なしに彼が愛でていた赤薔薇に手を伸ばすと、鋭い棘がチクリと少年の柔らかい指先の皮膚を刺した。痛みに思わず引っ込めた手の指先にうっすらと赤く血がにじむ。
 ファントムハイヴ伯爵の美しさにはきっと何らかの秘密がある。美しく手入れされた薔薇にも必ず棘があるように。いや、自分の直感を信じるとすれば棘ではなくて毒のような何か、か。いずれにしても、自分のまだ知らない、周囲の大人たちの誰も持ち合わせていなかった類の何かが、きっとあの瞳のどこかに潜んでいる。何だろう、久々に解きがいのある難問に出会ったような、そんな感じがする。
 まずは自分の暮らしを美しく毒のあるものにしてみれば何かヒントを得られるだろうか。ある事実から推論・実証を重ねていく学問も面白いけれど、直観的な疑問から答えに迫っていくのもいいかもしれない。それに、理論的根拠は何もないが、この謎に迫る過程には何か予想もつかないスリルがありそうな、そんな予感がするのだ。
 風がまた少年の白い上着の裾を揺らす。つい先ほどまでつまらなそうな顔をしていた少年は、至極上機嫌で宴もたけなわの広間へと戻っていったのだった。


少年の価値観が変わる第一歩。