亀裂




 自宅謹慎など降ってわいた休暇のようなものだと思っていたのも最初の数日間だけのことであって、ずっと自宅にこもっているとただ退屈の二文字だけがぶらんと目の前にぶら下がるのだと知ってから三日。グレルは手持無沙汰なまま、暇つぶしのネタを探してぐるぐると自室の中を歩き回っていた。こんな時にはデスサイズのメンテナンスでもしていれば一日くらいあっという間に過ぎるのだろうが、肝心のデスサイズが没収されていてはそれもできない。イライラしながら辺りを睨みまわしていていると、棚に置かれた金色の四角い缶がふとグレルの目に留まった。
「お茶……向こうにいる間はずいぶん文句ばっか聞かされたもんよねぇ……」
 手順は正しい筈なのに自分が入れた茶はなぜか不味くなると赤ずくめの彼女が呆れていたのはまだ記憶に新しい。自分が彼女に声をかけたあの夜に交わった筈の道はどうして分かたれることになってしまったのだろう。自分と彼女との間の溝が顕在化したのは一体いつのことだったろうか。
 ――最後の犯行の日。そして自分が彼女を殺した日。
 あの夜のことはまだ克明に覚えている。しばらくは忘れようとも忘れられないだろう。決定的な要因は彼女がやはり他の人間と大差ない、情に振り回される女でしかなかったこと。けれど、彼女との間に溝を感じたのはそれが最初ではなかった。
 そう、あれはあの夜まだ彼女の邸で執事の真似事をしていた時のことだった。

 

 ローズヒップのハーブティー。新しく淹れ直してセットした銀のトレイを捧げ持ったグレルが部屋へ戻った矢先。マダム・レッドとチェスをしていた筈のシエルがグレルと入れ違うような形で部屋を出て行ったので、グレルは内心肩すかしをくったような気分に陥った。話はもう終わったのだろうか。
(何よ、わざわざ淹れ直しに行くことなかったじゃない)
 だが、部屋の中からはまだ人の話し声がする。この声はマダムと……客人に仕える執事、だろうか。
「……あの子が一番辛かった時に、私は傍に居てあげられなかった」
 あの子、とはつい今しがた部屋を出ていったあの小さな客人のことか。マダムの声が妙に沈鬱で、入室するタイミングを逃してしまったグレルはそのままドアの陰に立ちつくす。なぜかはわからないが、入ってはいけないような気が、した。
「セバスチャン」
 部屋の外で聞いているグレルの存在に気づいているのかいないのか、マダムはそのまま言葉を続ける。
「どこの誰とも知らないアンタに頼むのもおかしいけど、どうかあの子の傍を離れないで頂戴」
 なぜだろう。聞こえるのは確かにマダムの声なのに、何か、どこかに、違和感がある。
「道をはぐれて、独りで迷ってしまうことがないように」
 ――マダム、変よ。そんな、聞きようによってはまるで、死に逝く者の遺言みたいな……。
「ええ、必ず。最後までお護りいたします」
 そう言って一礼したセバスチャンが部屋から出てきた時も、グレルは冷めかけた紅茶のトレイを持ったまま扉の陰に立っていたが、セバスチャンはそこにグレルがいることすらもまったく気にしない様子ですれ違い、廊下を歩き去っていく。呆然としていたグレルが恐る恐る部屋へ足を踏み入れたのは、セバスチャンの姿が廊下の角へ消えてしまった後だった。
「奥様……?」
 マダム・レッドは窓へ向かって座し、何やら考え込んでいる風に思われた。実際何事か思案中なのだろう、グレルの呼びかけにもいらえはなく、ゴロゴロとうるさい雷にも何も反応を示さない。
「……ねえマダム、さっきのコトバ、どういう意味?」
 グレルはトレイをテーブルの上に置き、窓の外を睨んでいるマダムを後ろから屈みこんで椅子の背ごと抱きしめ囁きかけた。
「特段意味はないわ。可愛い甥っ子を不幸にするような男を傍に居させるわけにはいかないでしょ」
 マダムの視線は相変わらず窓の外の荒れ模様を見据えたままで動かない。嵐の向こうに彼女は一体何を見ているのか。疑念が膨らむのを感じながらグレルはマダムの赤い髪を指先で弄び、あらわになった耳に更なる問いを流し込む。
「……セバスちゃんが悪魔だってこと、そんなに気になる?」
「そうね、気にならないと言えば嘘になるわ。どう見ても私たちにとって邪魔な存在であることに間違いはなさそうだし。あんたに向こうの正体がわかるのなら、逆もまた然り。そうよね、グレル」
「ま、おそらくは、ネ」
「次が最初で最後のチャンスになるわ。私が……」
 ドシャーン。
 ひときわ大きな雷が落ちた音がして、グレルはマダムの言葉尻を聞き逃してしまった。
「なァに、マダム?」
 恋人に対するような調子で耳元に唇を寄せるグレルをよそに、マダムはまだ荒れ模様を映す窓を、その向こうの何かを睨みつけている。彼女が何を言いかけたのか、何を見ているのか、グレルには想像することすらできなかった。

 

 金色の四角い缶を見つめていたグレルはふと我に返った。ここは人間の世界からは遠く離れた自分の部屋で、今ここに自分以外の者は誰もいない。
 いずれ終わりが来ることは承知の上での戯れだった。けれど、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。今から思えば、あの瞬間が運命の分岐点だったのだ。夢の続きを見ていた自分と、夢の終わりを見ていた彼女との間に生まれた深い溝。
 彼女があの時どのような未来を描き、どんな覚悟を決めていたのか今なら少しはわかるような気もするが、それを確認するすべはとうに失われている。彼女はもうどこにもいない。彼女のシネマティックレコードを紐解いてみたところで、今自分が抱いている疑問に答える意思はもはやどこにも存在しない。
「……こんな気分、ガラじゃないワ。あーあ、閉じこもってばっかりでも気が滅入るし、ウィルをからかいにでも行こうかしら」
 軽く首を振って紅茶の缶を棚に戻したグレルは、何事もなかったかのように平和で退屈な日常へと戻っていき、その後しばらくの間、彼の手がその缶に触れることはなかった。


ごっこ遊びに、本気になっていた。