ダビデ像の美学




「遅かったじゃない。仕事熱心なのネ」
 一日の仕事を終えて自室のドアを開けた瞬間、幻覚が見えたような気がしてすぐにドアを閉めてしまった。今日はこれといって普段以上にストレスの溜まるハプニングはなかった筈だが、疲れでも蓄積されていたのだろうか。
 ドアを開ける。幻覚ではなかった。
「こんばんは、セバスちゃん☆ご機嫌いかが?」
「たった今最悪な気分になりました」
「んもう、セバスちゃんたら照れ屋さんなんだから」
 ベッドの上に真っ赤な死神が1人。いつものように真紅のコートを引っ掛け、真っ赤な長い髪の毛先を糊のきいたシーツの上に散らしてしどけなく座り込んでいる。
 ――いっそ幻覚であってほしかった。


「まったく、貴方も一応神の端くれなんですから、もう少しまともな行動をしていただきたいものですね」
「アラ、不完全さは美の隠し味ヨ。ダビデ像だって頭が結構大きいでショ?」
「貴方の不完全さは瑕疵どころでは済まないでしょうに」
 ダビデ像にせよ、ミロのヴィーナスにせよ、完璧な「美」の体現を望んでいながら完璧よりも不完全に魅せられる……確かに人間にはそうした傾向があるが、死神である彼が本当にそう思っているのかどうかは甚だ謎だ。
 しかしセバスチャンにとってはそのようなことは限りなくどうでもいいことなのであった。ベッドの上に人のシャツをかき抱いて陣取っている赤い死神。クロゼットの扉が開けっ放しであることから察するに、部屋の中を物色して見つけたものなのだろう。無論きっちりと洗濯済みのものではあるが、自分の知らぬ間に部屋を物色され、あまつさえベッドに陣取られるのは決して気分のいいことではなかった。端的にいえば気持ち悪い。
「私は疲れているんです。さっさとそこをどきなさい」
「ああん、その冷たい目!薔薇より紅くて綺麗な罪の果実!その眼の林檎、齧ったらどんな味がするかしら?」
 ぎゅうと抱きしめられた白いドレスシャツにさらに深く皺が寄る。
「アナタの瞳は本当は何も愛していない穢れた瞳。だけど……」
 グレルは胸に抱きしめていたシャツの袖口、ちょうどセバスチャンの手首に当るであろう辺りに唇を押しつけた。
「だけど、そんな歪みがなくて愛に溢れた瞳なら、アタシは決してこんな風に囚われることもなかった筈ヨ」
「それは残念です。ええとても」
 そうだ、とても残念だ。この目が愛に溢れてさえいれば彼の眼鏡にかなうこともなく、自分は今頃ベッドの中でゆっくり休息をとれていただろうに。だが、愛に溢れた悪魔……それはそれで気味が悪い。偽りの愛ならば、いくらでも装って見せることは可能だけれど。いや問題はそこではなく。
「そこをどいて頂きたいと言っているのですが……実力行使に出ないとわかりませんか?」
 一日の終わり。それなりには疲れているのでもう追い返す文言を考えるのも面倒になってきた。今にも痙攣しそうな表情筋を無理やり動かして笑みを形作り、拳を握って見せれば、グレルは文字通り飛び上がった。
「キャッ!レディにそういう誘い方はご法度ヨ、セバスちゃん!」
 そのまま一歩踏み出す。
「ちょ、ホントにそれはやめて!」
「瑕瑾は美の隠し味と仰ったのは貴方ですよ?」
 にっこりととどめの一言。
「せっかくですので、貴方のその顔にも美のスパイスを追加できればと思いまして」
「じょ、冗談じゃないわヨ!」
 効果絶大。じわじわとベッドの隅へ追い詰められていたグレルは一跳びに窓際まで跳び退り、窓を大きく開け放った。
「さよならセバスちゃん!また来るワ!」
 投げキッスをその場に残し、死神は虚空へと姿を消した。かき抱いたシャツを持ったまま。
「……お屋敷からの支給品でしたのに……」
 頬に当たる夜風が冷たい。大きな溜息とともに窓を閉めたセバスチャンに、ようやく静かな夜が訪れた。


参考資料;山○新聞平成20年4月18日朝刊44面「揺らぐ神・潜む神」