ただ、キスを。
ハイ・ティーとサンドイッチ。見るたびにため息が出るが、長年の習慣はなかなか消えるものではない。合図が合図として成り立たなくなっても、自分がこの習慣を廃することはないだろう。今も、そしてきっとこれからも、ずっと。
『それにしても君よく食べるなあ』
『うるさい。人の勝手だろうが』
そんなやりとりが日常であったのも遠い昔なわけではない筈なのだが。天使のように笑みながら人を食った目をしていた顔が、ふと思い出すその顔が少しおぼろげになるほどの時間が流れ去ってしまったような錯覚に陥る。
キューカンバー・サンドイッチはどんな合図だっただろう。彼が去ってしまったと知ったあの時から、努めて忘れようとした。それまでであったら絶対に受けなかったような瑣末な仕事もスケジュールに詰め込み、食事もまともな形で取ることは数えるほどになり……今から思えば、あの時の行動もまたあの男に支配されていたようなものだが、憤懣をぶつける相手はもういない。ただ、苦々しさばかりがつのるだけ。
「クソ、馬鹿馬鹿しい……」
苛立ちをぶつけるようにディーデリヒはサンドイッチを乱暴に口に運んだ。キュウリの淡い味が口の中に広がる。味覚など麻痺してしまえばいいと噛み潰す。
『前回は無理を言ってすまなかったね。埋め合わせはまたさせてもらうから』
微笑みながら、その目の奥にはいつも次の厄介事を忍ばせていた。他の誰が見逃しても、自分は騙されないと思っていた。使われているのではなく、使われてやっているのだと。
『それで今夜のことだけど……』
――聞いてる?ディー。
ひそめた声で耳に流し込まれる甘い囁きは悪魔の囁きだと、いつも頭ではわかっていたのに。
『なんだ、用があるならさっさと話せ』
『さっきからずっとそのサンドばかりだけど、自覚はあるかい?』
『何をいくつ食おうが俺の勝手だ』
『……素直じゃないね、君は』
『うるさい』
そう、あの時はひどく苛立っていて。
『どうせまたややこしいことになってるんだろう。こんな所までわざわざ呼び寄せやがって……』
『君の力が必要なんだ。話だけでも聞いてくれると嬉しいんだけどね』
『チッ、わかったよ……聞くだけだからな』
あくまで聞いてやるだけだ。この天使の皮を被った悪魔の話を。そう思っていて何度面倒事に嵌められたことだろう。思い出すだに腹が立つ。
でも。
『ディーなら聞いてくれると信じてたよ』
誰もいない部屋へ移動してからそう言って降ってくる口付けを拒めない時点で、自分が嵌められることは抗えないさだめだったのかもしれない。
『いつもありがとう、ディー』
本音とも嘘ともつかない科白をさももっともらしく言いながら優しい舌が自分のそれと絡み合う。それが、はじまりの合図だった。
去ってしまった時間は戻らない。淡い味の筈のキューカンバー・サンドイッチがひどく苦く感じるのも、らしくもなく感傷的になっているのも、面倒事にまた巻き込まれそうになっているのも、すべて。すべては奴のせいだ。
「勝手にとっとと退場しやがって……」
決して縮まることのなかった年の差も、今ではもうずいぶん開いてしまった。
「まったく、馬鹿馬鹿しい」
ディーデリヒは最後のサンドイッチを口に運ぶと、ぬるくなりかけたアッサムで一気にそれを喉へと流し込んだ。淡いキューカンバー・サンドイッチの味も、淡く優しいキスの味も、すべて忘れようとするかのごとく。
キューカンバー・サンドイッチは、優しいキスから始める合図。
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