零れたミルクと花のひとひら




 紫色の花弁が絨毯に落ちる。1枚、また1枚と散らばる花弁から視線を上にずらせば、ベッドに腰掛けて至極楽しそうに薔薇の花びらを毟り取る主の姿があった。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「はい、これ」
 最後の花びらを毟り取り、主は萼だけが残った薔薇の茎をクロードに差し出した。受け取れ、ということか。ベッドサイドに歩み寄り、片膝をつく。よく磨かれた靴が落ちた花弁を踏みつけた瞬間に幼い瞳がきらりと光ったのを見逃す筈もなく視線で次の言葉を促すが、小さな暴君は何も言わずただ薔薇の残骸を突き出すのみ。上機嫌の表情が苛立ちのそれに変わりかけた頃に、執事はそれを受け取った。
「それ、直してよ」
 自分で毟っておいて元に戻せという理不尽な要求にも眉ひとつ動かすことなく、手袋を嵌めた手で花弁を拾い集める。肉厚のそれが寸分違わず元の位置に収められるが早いか、白い手が伸びてきて毟り取るようにクロードの手から薔薇を奪った。
「さすがクロード。継ぎ目も全然わからないや。だけど……あった、これこれ」
 しげしげと花を検分していた主が指で示したのは靴跡が残った1枚の花びら。
「これじゃ元通りとはいえないよね。あるべき所に戻したって、こいつが千切られて落ちた先でお前に踏みつけられた過去は戻らない」
 短く整えられた爪がなぞるその跡を消すこともクロードには容易いことだったが、あえて黙ったまま次の言葉を待つ。機嫌よく話す子供は、お喋りを途中で遮られることをひどく嫌うのだ。それに、どんな下らない内容であれ主人の言葉を最後まで聞かないなど執事としてあるまじき行為。ゆえに彼は少年が満足して口を閉ざすまでただ待つ。
「零れたミルクは戻らないなんて子供に言い聞かせたその口で祈祷書を読み上げたりするんだから大人ってつくづく理解できないよ。明らかに矛盾してるじゃない」
 土は土に、灰は灰に、塵は塵に。司祭の物真似のつもりなのか、いかにもしかつめらしく眉根を寄せて柔らかい指で執事の額に十字を切ると、主はぼすんと上体をベッドに投げ出し、はじけたように笑い出した。
「あはは、どっちが正しいかなんて火を見るより明らかなのにね。そうでしょクロード。時間が巻き戻らない以上、過去の事象は絶対に消えないんだもの。そもそも元に戻そうとか考える方がナンセンスなんだよ」
 ははっ、あははははは!
 胸を喘がせながら少年は狂ったように笑い続ける。ひとしきり笑い転げたのち、息を切らせて起き上がった彼は、くずおれるようにして執事の肩に縋りついた。その手からするりと抜けた薔薇が重力に任せて滑り落ちる。
「ああもう、笑いすぎて涙が出ちゃったよ。ねえ聞いてる? 聞〜い〜て〜る〜の〜?」
 肩に埋めていた顔を上げて耳元に声をぶつけても執事の面に不快の色が浮かぶことはない。
「お前には口がないのか? 聞いてるのかって言ってるんだ。答えろよ!」
「……ご心配なさらずとも一言も漏らさず聞いております。この距離ならば、心臓の鼓動さえ聞き逃すことはありません」
 静かな声で答えた執事は、至極丁寧な手つきで主の体をベッドに座らせ、足元に転がっていた薔薇を拾い立ち上がった。
「どこへ行くんだ」
「何か飲み物をご用意いたします。大きな声を出されましたし、お休み前ですからホットミルクがよろしいかと思いますがいかがでしょう」
「なんだっていいよ。任せた。お前こそ耳大丈夫? 片っぽ聞こえにくくなったりとか、ない?」
 気遣うような言葉とは裏腹、その目の光は物陰から自作の落とし穴を見守る子供のそれと変わらない。しかしクロードはそっけなく問題ない旨を述べ、平然とした顔で部屋を出て行ってしまった。
「……蜂にでも食われろ」
 毒づいた声がかすれていたのは喉嗄れのせいばかりではなかったが、それさえもあの執事にはお見通しなのだろう。思い切り舌打ちすると同時に咳き込んでしまい、滲んだ涙が睫毛を濡らした。
(こんな情けない顔、見られてたまるか)
 肌触りのいいリネンを乱暴に引き寄せ、頭から被ってしまう。丸くなって籠城体制をとったところで急激に睡魔が訪れたため、アロイスはそのまま眠りこんでしまった。

 

 うとうととまどろむ中で夢を見たような気がする。夢の中の自分は眠っていて、自分の寝顔を見下ろすのはなんだか妙な感じだった。そこへクロードが入ってきたので驚いたが、夢の中のクロードには今の自分は見えていないらしい。
(あ、そっか。夢だもんな。……くそ、おどかしやがって)
 クロードが主の顔にかかった前髪を払うと、幼い寝顔に一筋だけ涙の跡が残っているのが見えた。きっと夢の中の自分は悪い夢でも見ているのだろう。
「旦那様の仰るとおり、契約を交わした過去が消えることはない。それでも不安がられるのであれば、私は――」
 長い指で涙の跡を拭い取りながらクロードが何か言っている。
「昼を夜に。砂糖を塩に。生者を骸に。そして濃紺を金色に……あるべき場所など確率が高いか低いかの問題にすぎません」
 すぐに離れるかと思った手はなだめるように輪郭をなぞり、金の髪を指先で弄び始めた。実際のクロードはこんな愛でるような手つきで自分に触れたりしない。やっぱり夢だなと納得しつつも、こんな夢を見るなんて自分にこんな願望があるのだろうかと思うと寒気がする。
(ありえない。まあ、所詮夢だし……)
「――」
 声が遠くなってきた。何かを言っているのはわかるが、何を言っているかはもうわからない。そうこうしているうちに視界もぼやけてきた。
「――私の……    …………   ――」
 それきり、夢の記憶は途切れた。


 空白部分は反転しても何も出ませんのであしからず。