「……セバスチャン、これで満足か」
「ええ、今度こそ、契約の対価をいただきます」
「まったく、悪魔がこんなに愚かだとは思わなかったぞ。どれだけの時間を無駄に費やしたのやら」
「おや、その愚か者にあっさり騙されたのはどなたです?」
「誰もお前のことだとは言ってない。自意識過剰だな」
「………………」
「奴にまた掠め盗られても後が面倒だ。さっさと済ませろ」
「イエス、マイロード」
荒れ果てた村の跡を冷たい風が吹き抜け、足元で小石がころころと転がっていった。かつて自分が暮らしていた村。人影はおろか、ここに人が住んでいた痕跡さえまともに残っていないただの荒れ地。そうだ、初めから俺は何も持ってなんかいなかった。今立っているこの体とてはたして実在するものかどうか。
ただぼうっとする。夢のように過ぎた時間をとりとめもなく思い出す。嘘まみれだった。与えられる砂糖菓子の甘さが偽物だと分かってもいた。でも、今となってはそう悪い気もしない。いい夢だったとは言えないまでも、悪くない、夢だった。
ふと背中に違和感を感じて目を開けた。なのに視界は真っ暗で何も見えない。目の前に広がる荒れ地も、転がっていった小石も。何かに目をふさがれているのだ。この感触、この匂い、忘れる筈もない――!
「……クロー、ド?」
「はい」
小刻みに震える手で自分の視界を覆う手を外して振り返れば、とうに去ってしまった筈の執事がごく当たり前のように立っていた。
「嘘だろ……」
こわばった口から呟きが零れる。信じられない。俺は奴の望むものを差し出せず、奴は去った。美し糧を見出した人ならざる獣が戻ってくる理由はどこにもない。だのに今自分が見ているのは誰だ。いや、何なのだ?
「これは夢?」
木靴さえなくした貧しい少女に凍えた体を温めるストーブの夢を見せた売れ残りのマッチ棒。何も持たない俺が唯一手元に持っていた下賤な魂も、燃え尽きる刹那にはいつか聞いたお伽話のようにあたたかい夢を見せてくれるものなのだろうか。
「夢ではありません」
「じゃあ何?
どうしてお前がここにいるの?」
「………………」
「……お前はとっくに俺の執事なんてやめちまったんじゃなかったのか?」
吐き捨てるように笑って後退ろうとする自分と、悪夢の続きでもいいからと縋りつこうとする自分とが互いに争い、その結果俺は指先ひとつ動かせないでいる。ああ、やっぱり俺は中途半端なままだ。突き抜けて清冽な輝きを放つ魂とは、違う。
自分は弱くなってしまった。それなのに目の前の男は以前とまるで変わらない様子でお決まりの言葉を口にする。
「幾度も申し上げたでしょう。私は貴方を飽くまで貪りたいと」
「みじめで穢れたどうしようもないこの俺を?
どれだけ腹が減ってるんだよ。俺じゃシエルの代わりにはなれないだろ?」
「否定はしません」
涙が溢れた。手袋に包まれた大きな手が頬を伝う生温かい雫を拭ってくれることはもうないと分かっているのに、止められない。
「しかし手ぶらで帰る理由もない」
魂を拾いに来たのは気まぐれですらないのだと、いまだ執事の姿をしたままの悪魔は言う。惰性で拾われるくらいならいっそ捨て置かれ跡形もなく燃え尽きてしまう方がいくらもマシだったろうに、最後の安息さえ俺には与えられないのか。
「――もう、いい。どこへでもさっさと持って行けよ!」
一部の隙もなく着込まれたシャツのボタンをかきむしってやる勢いで俺は元執事の胸にしがみつき、捨て鉢に叫んだ。もう、もう早く終わってくれ!
もうこれ以上何も見たくない何も聞きたくない!
それなのにこいつが薄汚れた俺の手を取ってその甲に口付けたりなんかするものだから、驚いて顔を上げた俺は続く言葉を耳に直接流し込まれてしまった。
「イエス、ユア、ハイネス」
だからどうしてこの期に及んでそんなことを言うんだ!
己の棲み処へ戻った悪魔は傍らに置いた黄金の鳥籠を眺めて笑う。
同胞が丹精込めた美味なる魂の存在には、少なからず食指を動かされた。
だがどれほど旨い魂であろうとも、食んでしまえばそれっきり。
その点、地を這いずりながら届かぬ月へ手を伸ばし、飢えと渇きに泣き咽ぶ貴方の声は悪くない。
ならばその甘いさえずりで耳を楽しませる方が理に適ってはいるまいか。
籠の中の青いカナリア。
いつか聞き飽きてしまうその日まで、私の加護の元さえずるがいい。