飽くまで俺を
傷だらけの重い足を引きずってようやく暗く狭い岩屋の陰に身を落ちつけた悪魔は、かろうじて肩に引っ掛かっている燕尾服の隠しから最後の眼鏡を取り出した。常に切らさぬようにしていたスペアのうちの最後の1つ。そして、失えば取り返しのつかないただ1つ。
「……万事、休したか」
レンズは割れてこそいないものの無数にひびが入っており、それを支えるフレームもすっかり歪んでしまっている。透明なガラスを縦横に走るひびが蜘蛛の巣のように見えるのがやけに滑稽に思われて、悪魔はたいそう苦く笑った。そのはずみで額から流れ出ていた血の滴が右の目に入り、痛みに思わず目をこすれば先の戦いで破れ汚れた手袋の甲にどす黒い色の染みが広がり、ぬとりと絡みつくような湿気が布越しに感じられた。
時間はかかれど傷はいずれも治癒可能なものばかりだが、この眼鏡――獲物に食らいつく際に必要な針だけはそうはいかない。それを十分に理解していたからこそスペアを入念に用意した上、荒事の際には極力外すよう習慣づけておいたのだ。
かちりかちりと打ち鳴らす機能の他、薄弱な消化器官を補うため獲物にあらかじめ毒を注入して初期消化をすませておく鋏角という器官なしでは、正攻法で食事を取ることはもはやできない。ここは面倒だが回復を待ち、悪魔としての能力を用いて機能の不足を補って暮らすしかないだろう。
悪魔が目を閉じて休息に入ろうとしたその時、真っ暗闇の筈の岩屋の中に一条の光が差し込んだ。
「クロード」
静かに己を呼ばうのはしばらく前までメイドとして協力関係にあった女の声。彼女が今自分の敵であるかどうかはわからないが、たとえ敵対的意思を向けられたところで今はまともに動ける状態ではない。緩んでいた襟元だけはそれらしく整えて、彼は声の主を待った。
「……生きてはいるようですね」
「ご覧の通りの有様だがな」
「生きてさえいるならば問題ありません」
感情のこもらない声でそう言って、ハンナはクロードに背を向けて衣服をくつろげ始めた。いまだ目に流れ込む血のせいで彼女が何をしているのかはっきりとは見えないが、エプロンを外した彼女の手で一瞬きらりと光ったのは小振りのナイフであるように思われた。
「…………っぐ」
かすかな呻き声の後、女は振り向いて鮮血に濡れた手で何か丸いものをクロードに手渡した。
「これは?」
「……旦那様から、クロードにお話したいことがあるそうです」
では私はこれで。ハンナは血まみれの腹をエプロンで覆い、静かに岩屋から出て行った。細く差し込んでいた光も途絶え、辺りはまた暗闇に包まれる。
「………………」
ハンナの体内にあったせいか渡されたしっとりと濡れた珠を掌で転がし、薄々はわかっているその正体を確かめようと眼前に近づけた刹那、何か柔らかいものがクロードの視界を覆い隠した。
「俺だよ、クロード」
迂闊に触れればすぐに壊れてしまいそうなほど脆く柔らかな幼い手が外されて最初に目に映ったのは生前とまるで変わらない姿でニヤニヤと笑みを浮かべてクロードを見下ろしている直近の契約者。
「あーあ、随分ボロクソにやられちまって。らしくもなく引き際間違えた?」
「貴殿は……?」
「え?
見りゃわかるだろ。わ、この傷ひょっとしなくても結構深い?
血ィだらだら出てるし。痛そー」
言いながらクロードの額の傷に容赦なく爪を立てる少年の表情は、その言葉とは裏腹、珍しい玩具を見つけた子供のようにひどく楽しそうだ。嬉しそうだという方がより的確かもしれない。
「痛い?
さすがのクロードでもこれは痛いよね。でももう大丈夫、俺が治してやるからさ」
無邪気な少女めいた笑みのまま屈みこんでクロードの頬を両手で包み、彼は額の傷口に舌を這わせる。まるで猫のような仕草だが、猫と違ってその舌にはトゲがなく、湿った温かさだけが溢れる血を掬い取っていく。
「他に大きな傷は……っと、それも壊れちゃった?」
額の血が止まったのだろう、顔を上げてしげしげと検分していたアロイスの目がだらりと床に投げ出された左手に、正確にはその手に握られた眼鏡の残骸を見出した。
「最後のスペアも壊れちゃったか……ふふ、やっぱり来てやって正解だったな」
機嫌良くくるりとターンしたアロイスに、クロードは再度疑問をぶつける。
「死んだ筈の貴殿がなぜここに?」
「へ?
わかんない?
クロードって何でもできるくせに時々微妙に抜けてるよね。ハンナだよ」
「………………」
「レー、何だっけお前のあの物騒な剣。あんなもんをしまっとけるくらいなんだからさ、俺1人の体くらいどこにだって入ると思わない?
まあ便宜上形は変えてたみたいだけどさ、復元したらこの通りってワケ」
「しかし……」
「あは、魂はどうしたって言いたそうな目。よく見たら結構表情あるんだなお前。魂――俺のヒトとしての魂はね、食っちまったよ。そうしないとお前を助けてやれないだろうと思ったからなんだけど、見事に予想は大当たりだったみたいだね」
言われて初めてアロイスの体を取り巻く瘴気に気付き、クロードは驚きに目を瞠った。彼は、アロイスはもはやヒトではない。自分と同郷に暮らすべき――悪魔。
「俺が死んだ後ではあるけどお前、しくじっちまったしね。お仕置きが必要だろ?
俺がお前の代わりにお前の獲物を初期消化してやるよ。お前が食える状態にして、俺が食わせてやる。でもこれだけじゃお仕置きにならないからな。お前が獲物を捕らえても、お前が食えるかどうかは俺次第だ。俺の機嫌を損ねない術は執事ごっこで身についてるよね?」
さあ、行くよ。
アロイスはクロードの返答も待たずにその手を掴み、引っ張りあげる。クロードが立ち上がると、視線の高さはすっかり逆転した。
「返事は?
クロード」
高い声に促され、クロードはトランシー邸で幾度もやりとりしたのと同じように、跪いて慇懃な礼を取った。
「――イエス、ユアハイネス」
旦那様が少々男前すぎたかもしれない。そしてクロードがいやに受け受けしい。
でも迷いを振り切ったアロたんはこれくらい強くてもいいと思う。
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