“Eat me,Sebastian!”
中天に懸かった月がわずかに傾き始めた真夜中。仕事を終えて自室へ戻ったセバスチャンは、不格好な形のケーキが机に置いてあるのに気がついた。少しばかり斜めに傾いたスポンジといい、中途半端に崩れかかっているデコレーションといい、まるで素人が初めて作ったかのような出来である。一体誰が作ったものかと疑問に思った時、ケーキのわきに黄色いカードが添えられているのに気がついた。
“Eat
me,Sebastian!”
手書き文字の見本として幼い主に見せてやりたいような流麗な筆跡。文字の形も、カンマの形も完璧だ。少なくとも主人の筆跡ではないし、使用人のうちの誰かの筆跡であるとも考えられなかった。無論自分が作ったような覚えもない。ならば一体誰が。
“Eat
me,Sebastian!!”
カードをじっと見ていると、エクスクラメーションマークが一つ増えたような気がした。疲れ目だろうか。
疑問はまるで消えないが、このケーキが自分のために作られたものであることだけは確からしいと思ったセバスチャンは、気は進まないながらも一口食べてみることにした。フォークもナイフもなかったので、手袋を嵌めたままの指を突っ込んで一口分をすくい取り、一つ溜息をつく。
「……ケーキだけ用意して食器を忘れるなんて、これを用意した人間はずいぶんと片手落ちなものですね」
“Sorry,I
had forgotten
it.”
すると、その溜息に呼応するかのようにカードに別の文字が浮き上がった。
「『忘れてた』?」
いやに人間くさいカードだ。いや問題はそこではなく。
(一体誰が?)
呟きに反応を返すカードなど、人間に作れる代物ではない。だが作成者の心当たりがないとなれば原因は一つしか思い当たらず、セバスチャンは嘆息する。自分は幻を見るほど疲れているのだろうか。
“Eat
me,Sebastian!”
またカードの文字が変わる。カードの意志は固いようだ。セバスチャンは諦めて指先のケーキを口に運ぶことにする。
「?!」
驚いた。甘い……とはこういう感覚なのだろうか。人間の食べ物はわけのわからない味しかしない筈なのに、甘い、のだろう味がした。
“It's
taste sweet,isn't
it?”
「確かに甘いですが……なぜです?」
契約に従ってヒトに擬態してはいるものの、セバスチャンは悪魔であってヒトではない。それなのになぜケーキを甘いなどと感じるのか。
“Because
It's a
cake.”
ケーキだから甘い。確かにその通りだが、自分はケーキを甘いと感じる「人間」ではそもそもなくて……悪魔の思考は疑問符を伴って空回るばかりだ。
“Eat
me
more!”
言われなくても食べる。魂の味とは全く異なるが、こんなに甘いケーキは初めてだ。否、自分が甘いと感じるケーキ自体初めて遭遇したものだ。きわめて興味深い。完食し、この甘さの秘密を探り出さなければ。なかば使命感にも似た気分のまま、セバスチャンはケーキを食べ続ける。
一体誰がこんなものを用意したのか。この問いの重大さに彼が思い至ったのはケーキをすっかり平らげてしまった後のことだった。
時は少しさかのぼる。セバスチャンが自室でケーキを見つける数時間前の厨房では、メイリンが包帯だらけの指でほのかに赤く染まった両頬を覆いながら完成させたケーキを眺めていた。
「セバスチャンさん、喜んでくれるといいですだが……」
「大丈夫に決まってんだろうが。なんたって料理長の俺が直々に指導してやったんだからよ。まあ見た目はちっとばかりアレだが、味は折り紙つきだ。自信持てよ、メイリン」
「は、はいですだ!」
固く手を握り合うバルドとメイリンの横合いから、ケーキが出来上がる過程をじっと見つめていたフィニが顔を出す。
「でもちょっと戸惑ったよね。この小麦粉にしても砂糖にしても、袋になんて書いてあるか全然読めなかったし……」
「だな。料理長の俺がついてなきゃどれが何だか判別するのはメイリンにはちと難しかっただろ。だいたいこのラベル何語で書かれてんだ?」
すっかり空になった小麦粉の袋をつまみあげてバルドがごちる。袋に書かれているのは英語どころかアルファベットですらない未知の文字列。
「確かこれ、タナカさんが持ってきてくれたんだよね。だったらタナカさんに聞けばわかるんじゃない?」
「そりゃそうだ。……で、肝心のタナカさんはどこに行った?」
「さあ……?」
メイリンがセバスチャンのためにケーキを作ると言い出した時に材料一式をどこからか持って来たタナカの姿はない。調理の途中までは厨房にいた筈なのにと、3人はただ首をかしげるばかりであった。
END
*おまけ*
無人の室内。ややいびつな形のケーキを目的の場所に置いたタナカは、黄色いカードをその懐から静かに取り出した。カードには何も書かれていないが、気にすることなく皿の側にセットする。
(隠しているつもりかもしれませんが、少し聡い者には飢えているのが一目瞭然ですよ)
執事の赤い目が、日に日に血の色へ近づいていた。ヒトに認識できる色調変化ではないが、人ならぬ自分の目には火を見るよりも明らかな変化。
フォークはあえて用意しなかった。飢えた獣に人間のテーブルマナーなど無意味だろうと考えた結果だ。
「さて、後は頼みましたよ」
タナカは手袋越しにカードにわずかに触れると、何事もなかったかのようにその場を後にするのだった。
タナカさんオチでした。
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